Vermont’s capital, Montpelier, closes downtown as river reaches historic levels. National Weather Service warns of more potential flash floods.

The Aftermarth Sept. 13

Northeast storms dump over 2 months’ worth of rain on Vermont: Live weather updates
Floods in Vermont close streets, take out bridges, and burst a dam

うちの家族にとっては「私たちのアメリカの家」と思っている(た)Vermontの大洪水は、自分事だ。みんなで大ショック!幸い上流のダムの決壊は免れ、水は引き始めた(7/13 As of this morning, the dam has held, and the water is beginning to recede. So now the clean-up will begin. As you can tell from the pictures, it will take a long time to get things back to normal. J. I saw a picture of the flooding in downtown Montpelier, I’m really surprised. It’s unbelievable. I’m also worrying about the Dam. I wish your family are all safe K..)

バーモント州は水没しました!米国バーモント州モントピリアで鉄砲水が発生 wildweatherus

Heat wave, flooding:
Water can be seen flowing next to a damaged road after flash flooding in Ludlow, Vt., on Monday. (Joanna Slater/The Washington Post)Water can be seen flowing next to a damaged road after flash flooding in Ludlow, Vt., on Monday. (Joanna Slater/The Washington Post)
You’re probably watching — and maybe living — two of the biggest political stories this week: The punishing heat wave across the West and South, and torrential rain drowning Vermont and upstate New York. But maybe you’re not seeing them as political stories. Let’s fix that.These two dramatic meteorological events are first and foremost about the lives of the people in physical danger, or who are losing their homes or livelihoods. But because our working definition of politics includes how a society addresses threats, the label clearly applies.Today, we’re going to focus on the flooding.

Vermont’s capital, Montpelier, closes downtown as river reaches historic levels. National Weather Service warns of more potential flash floods.
Updated July 11, 2023 at 6:24 p.m. EDT| WP
Relentless rain washed out roads and prompted evacuations in Vermont on July 10 as the state braced for more rain and flooding overnight. (Video: Julie Yoon/The Washington Post, Photo: John Tully/The Washington Post)

Even as the rain stopped late Tuesday morning, a deluge and swollen rivers created “historic and catastrophic” flooding in Vermont, Gov. Phil Scott (R) said Tuesday, with officials warning that more rainfall is expected as early as Thursday, threatening another wave of flooding and damage.

“This is nowhere near over,” Scott said.

More than 100 people have been rescued by boat as authorities rushed to rescue those stranded in hard-hit and remote areas. Thousands have lost homes or businesses and “countless” roads have been washed out, authorities said. No deaths had been reported in the state, but officials said search-and-rescue would take at least several days. Officials hoped to begin damage assessments by Tuesday evening or Wednesday morning.

A man walks down street flooded by recent rain storms in Montpelier, Vermont, U.S., July 11, 2023. REUTERS/Brian Snyder TPX IMAGES OF THE DAY

地図との風景

Sept 14 The newspaper which John sent to us today!

Goodbye “our” Vermont House 2023

Ann’s Room

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Kumiから「片手で使える道具」の情報。桂三枝(今は”六代目文枝”)風に突っ込みを入れるなら「ごちゃごちゃ言わんと買って持ってこんか!」となる(?)。でも、私のことを考えてくれてありがとう。早速ご好意に甘えて、気が変わらないうちに(!)「注文」しようっと!

No.5(納豆混ぜ),6(爪切り),13 (紙抑え)欲しいなぁ。面白そう。

【 片手でも麻痺側を参加させても「調理・料理」を便利で安全に!!】

脳リハ

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Audibleで読む鎌田東二 ”聴く歴史・古代『天照大神』”が面白い。そう、「面白」は喜びで顔面が白く光り輝くことだと。

 スサノオの悪事に懲りて天岩戸に入った天照大神をこの世に戻すため、大岩の前でアメノウズメの命が神がかりのようにムネとホトがあらわにして踊ったのでその音が天の世界が鳴りひびいてたくさんの神がいつしよに笑い、「あはれ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ」と言った。その意味は、”天晴れ(あっぱれ)素晴らしい、おお人の顔が光り輝く、た(手)のし(伸ばし)・踊りたくなる、万物が生き生きとする”の意味と知り、目からウロコだった。

 鎌田東二 1951生。國學院大學文学部哲学科。國學院大學大学院神道学専攻単位取得満期退学。国際日本文化研究センター共同研究員・客員助教授(1989年-2000年)。ダブリン大学(アイルランド)ケルティック・スタディーズ客員研究員(1995年)。2001年3月 学位請求論文「言霊思想の比較宗教学的研究」により、筑波大学から文学博士号「博士(文学)」(論文博士)を授与

現代語譯 古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶  武田祐吉訳(大正・昭和期の日本の国文学者)

一、イザナギの命とイザナミの命   二、天照らす大神とスサノヲの命  三、スサノヲの命  五、天照らす大神と大國主の命  島々の生成 ――神が生み出す形で國土の起原を語る。――

わたくし安萬侶やすまろが申しあげます。
 宇宙のはじめに當つては、すべてのはじめの物がまずできましたが、その氣性はまだ十分でございませんでしたので、名まえもなく動きもなく、誰もその形を知るものはございません。それからして天と地とがはじめて別になつて、アメノミナカヌシの神、タカミムスビの神、カムムスビの神が、すべてを作り出す最初の神となり、そこで男女の兩性がはつきりして、イザナギの神、イザナミの神が、萬物を生み出す親となりました。そこでイザナギの命は、地下の世界を訪れ、またこの國に歸つて、みそぎをして日の神と月の神とが目を洗う時に現われ、海水に浮き沈みして身を洗う時に、さまざまの神が出ました。それ故に最古の時代は、くらくはるかのあちらですけれども、前々からの教によつて國土を生み成した時のことを知り、先の世の物しり人によつて神を生み人間を成り立たせた世のことがわかります。

古事記上卷 幷序

臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。所以、出入幽顯、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故、太素杳冥、因本教而識孕土產嶋之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬神蕃息與。議安河而平天下、論小濱而淸國土。

是以、番仁岐命、初降于高千嶺、神倭天皇、經歷于秋津嶋。化熊出川、天劒獲於高倉、生尾遮徑、大烏導於吉野、列儛攘賊、聞歌伏仇。卽、覺夢而敬神祇、所以稱賢后。望烟而撫黎元、於今傳聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖步驟各異文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽・照今以補典教於欲絶。

国立公文書館のサイトより

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ヤマボウシ2023

7月  8月  9月  

7/4 梅雨の合間に歳時記を開いてみた。

◆ 水無月や笹の香りに母思う
◆ 三枚の笹葉で包む粽(ちまき)かな
◆ 🌸三角の笹の葉開き粽食む
2021 Ofuna FC

六月を奇麗な風の吹くことよ  正岡子規

六月の花のさざめく水の上   飯田龍太

六月や身をつつみたる草木染  大石香代子

総帆展帆七月の雲かがやかす  須賀一惠

七月の夜に入る山のくるみの木 嶺 治雄

7/21 暑いけどお風呂は快適・楽しい時間

◆ 夏風呂に山からの風そっと吹き
◆ 山からの風受け風呂には三老女
猛暑も何のその、老女たちはのんびり浴槽でおしゃべりをします。

8/6 Mari is now in San Francisco

◆ Mariのいるサンフランシスコ青い空
◆ ”妹”腕に微笑むMariに陽のやさし
◆ American Blueの小さき花涼し
◆ 沖縄の花も避難の酷暑かな
◆ 暑さにもめげず「左・右」前進だ!

9/19 NHK Drama”らんまん” より「 「この雪の消(け)残る時にいざ行かな」(徳永)「山橘の実の照るも見む」(万太郎)

 「万葉集」にある大伴家持の歌。「この雪が消えてしまわないうちに、さあ出掛けよう。ヤブコウジの実が雪に照り輝く様も見よう」(高岡市万葉歴史館の公式サイトから)。

天平勝宝2年(西暦750年)12月の雪の日に詠まれた歌。

– rough meaning: Now, let’s go before this snow disappears. Let’s watch the fruit of the mountain Yamatachibana shine.

参考たのしい万葉集」 「高岡市万歴史館

9/24 酷暑を乗り切りやっと行けた大船フラワーセンター

◆ コスモスを探し走れば赤とんぼ(Simon)
◆ 🌸陽に映えて金の穂揺らすあわだち草
◆ 植物園の隅に一輪彼岸花
◆ 植物園木陰のカフェでピクニック
◆ 芝生広しいっぱいに手を伸ばしおり(子と孫たち)
◆ 青空まで届きそうな樹見上げたり (私・・・)

9/27 こもれび:「そういえば、俳句を忘れていた!」と気づく。

◆ ふとみれば桜葉色づく九月かな
◆ ひとりふたり来なくなる人を思う秋 (寂しい)
Komorebiにて

6/26 リハビリのモットー「私の仕事はリハビリです。」ナニクソ!」「歩かないと歩けなくなる。」は変わらないし楽観はできないけど少しずつ余裕も出てきたこのごろ。夏を元気に乗り切りたい。

6/26  6/28 Seong Jin Cho  6/30 腰痛  7/5 こもれび  7/7 七夕  7/11 Zoom w/ Professor G  7/14 ゆっくり訓練  7/19 猛暑  7/25 hunch back  7/26 Hiroseさん  7/29 加藤歯科医院  7/31 KenKumiウナギ   8/2 O氏&右手ピアノ  8/8 Webの仕事と孫の夏   ★秋のイラスト  

🌺 夢なんてほとんど見なかったのにこのごろ明るく元気に動く夢を見る。Aikoちゃんとお出かけの準備でお化粧をする夢(foundation,lip rougueがない!とか、あとは忘れた)、白っぽい大きいトラックを運転する夢(中学のころの道路)、白いドレスでコーラスの舞台に立つ夢, 大学の友人たちが出てきた, 歌う前に夢は途切れた、残念)、Sinanさん(最近Balasくんに赤ちゃんが生まれてお爺さんになったのをFBで知った)とCostcoに行く相談をする夢。なんとバラバラでめちゃくちゃ、面白い・・・。(夢:つづき)7/10過ぎごろ、雪が半分ぐらい解けはじめた春の田舎道、道路の真ん中に白く固い根雪が残りその周りが黒っぽくみぞれ状になっている道を自転車で走っていて、前のタイヤが固い根雪に当たり滑りそうになりながら走っていた。それでも前進はしていた!その後も、何か前へ進む夢を何度か見たが・・・忘れた。(7/22記)

 

6/28 一番考えていたことは6/28文京シビックホールでのSeong Jin Choのコンサートがあったこと。気づいたのが遅いし、すでにチケットは完売だからいいのだけど、「行きたかった!!」

出演指揮/山田和樹
ピアノ/チョ・ソンジン
管弦楽/バーミンガム市交響楽団

曲名ショパン/ピアノ協奏曲第2番
ラフマニノフ/交響曲第2番 

 

 上半期の来日オーケストラの中でも最注目と言っていい。なぜならこれは、稀有の国際的指揮者・山田和樹が、イギリスの世界的名門オーケストラのシェフに就任後、初めて行う日本公演であり、”海外のトップ楽団を率いる日本人指揮者”という点で小澤征爾以来の快挙を成し遂げた彼が、”世界のヤマカズ“としての本領を日本で真に発揮する様を最初に目撃&体験できる歴史的な機会となるからだ。しかも、ショパン国際ピアノ・コンクールの覇者である人気奏者チョ・ソンジンも参加するとなれば、いやが応にも期待が膨らむ。(by 柴田克彦)

バーミンガム市響(6月29日)
2023年06月30日 | コンサート
2016年にもこのオケを引き連れて来演している山田和樹だが、今回は首席指揮者/アーティスティック・アドヴァイザーとしての”凱旋公演”である。バーミンガムと言えばロンドンに次ぐ英国第2の都市なのだから、なかなか凄いポジションであることは確かだ。前任者にはラトルネルソンズの名前があるところを見ると巨匠への登竜門かもしれない。さて、この日の曲目はピアノにチョ・ソンジンを迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21と、山田が熱望したというエルガーの交響曲第1番変イ長調作品55だ。まずショパンだが、2015年ショパン国際コンクール覇者のチョのピアノは繊細を極めた外連味のない率直な表現でとても好感の持てるものだった。それは巷で言われる「ショパン弾き」とは一線を隔する音楽だ。ただこの日のピアノ(スタインウエイ)の音はどこか冴えがなく、実力を発揮できていたかどうかは私には疑問だ。一方山田のサポートもそのピアノに対峙すべく微細を極め行き届いていた。更に凡ゆる声部のバランスが見事に整っていて表情づけも丁寧なので、ショパンのオーケストレーションの不満を感じる瞬間はひと時もなかった。アンコールは何とラヴェルの「道化師の朝の歌だった。こんな曲を持ってくること自体、自分はショパン弾きではなく「ピアニスト」なんだと主張していることではないか

「子育て四訓」:チョソンジンの親の場合

6/29(Thurs) 木曜日は空けておくことにしている。今日はO先生のblogを更新。「見出し」部分をコピペで処理すると消えてしまったりでや苦戦した。でも、脳トレと思って・・・。昨日のこもれびでも「屋外含む訓練歩行」実施。Nish先生の忍耐と励まし支えられ少しずつだけど上達。Driver Oさんと鎌倉のヤマボウシの話。利用者T氏とは阿王ヶ台が昔田んぼだった時の話。S氏とは英語でご家族の介護の話など。「英語で話してたわね。いいなぁ。」という人あり。要注意。周りの人へのイヤミにならないように。

ヤマユリもみたいなぁ

6/30 腰痛のためこもれび欠席!少しずつ良くなってきた。前かがみに立ち、前かがみのまま腰とお腹に力を入れて歩く!7/2 まだ背中の腰の真ん中あたりに鈍い痛みは残るが「脚の筋力が弱くなり歩けなくなる」と思い、杖歩行再開。室内を2往復x3回。7/3 今日の訪問リハは林PT。腰痛の経緯を話した後、体をほぐしてその後は普通に歩行訓練。PCに向きっぱなしは止めるよう指示あり。腰痛は治った!

腰痛なのでパパがAeonの安売りで200円で買ってきてくれた薔薇(笑)

7/5 1回休んでこもれびへ行ったら嬉しかった、楽しかった。みんなが「どうしたの?」と気にしてくれたし、多くの人が脳トレの回答を訊きに来てくれたし。腰痛はゆっくりの入浴とリハビリN氏の「もう1周歩きましょう」の掛け声ですっかり良くなった。ピアノも弾けたし、Sh氏の英語がもう少し上手かったら完璧なんだけど(!)Mさんとは読書の話。私のAudibleの作家の中では、吉本隆明、米原万里、Rachel Carson,ドストエフスキー、内館牧子、などがお好きとか。

夕方、明日誕生日のAikoちゃんとLineで話もした。完璧。もう寝よう。下野竜也のN響ラフマニノフを聴きながら。この頃左手も少しずつ動くし。

7/7 七夕ランチが出た。今日の事件は新規piano演奏者が出現(!)したこと。..時間割が難しい。数か月間2人だけだったので暗黙の了解で私がSinz氏の後に10分程度使っていたが、先人2人に断りもなく(いいんだけど、ちょっと非常識)Ms. Shimoが私たちの前に長々と20分以上~30分近く使っていた(特にうまくもなかった)。初めて使うときはフツウ先人が終わってからやるのが日本人のルールでしょう(少々怒)。まあいいけど。今日は戸外歩行がうまくできて気分良かったし、同席の女子4人での大笑いの楽しいおしゃべり、Shim氏とのアメリカ南部文化(お客が来たら時間を止めてもてなす)の話も楽しかったから。

7/11 この頃の歩行では、距離と時間は稼いでないけど、やり方がだんだんわかってきた気がする。7/6 は一志が「元気そうに見える」と言ったし。今日(7/11)はGhimire先生も「顔が元気そうだ。前と違う」と言った。先生とは1時間おしゃべりして楽しかった!「御祭禮」のタオルをもらっていいかと?自治会(役員など)はお寺を支持してるけど。。。とか(笑)フランス語についても訊いた。good. très bien (かな?)「大丈夫」だった。c’était très bon(とても良かった)・・(後日談:私の意見でも役に立つと;These are great leads. You understood my question perfectly. I came across some of the points you mention in my personal research. But it is always good to have a cross-checking based on informed observations.Thank you again for giving me an important helping hand)

歩行練習では、左足を出すときお腹の筋肉を少し緩めてふーっと息をして出すとスムーズに出た。でも姿勢は悪くなるかも。。。

7/14 Hakkeiは2台目エアコン設置のおかげで今年の夏は泣かないでも済みそう。夜中は「涼快」に設定し熟睡。でも、全体とし歩行訓練はゆっくり目。

こもれびピアノ「問題」はなんとなくうやむやで解決の方向へ。3番目の人は7/14は使わなかった。彼女の(最初に断りもなく始めた)開始時刻に一番手ピアニストS.S.氏が弾き始めたから。S氏の次は私と決めてたのでS氏が終わったら私がすぐ演奏開始。連絡帳には「思う存分、ゆっくり弾いてください」のように書いてあったので、前回2回のせわしない弾き方をやめ、”音楽的”テンポでゆっくり美しく(!)弾いてみた。15分かかった。そしたら午後のレクの時間が迫り彼女の時間がなくなった。良くなかったかもしれない。

7/19 猛暑が押し寄せている。夏休みも孫たちがそれぞれの活動範囲を広げていて頼もしい。生活の中心”リハビリ”では室外歩行にこだわっている。ピアノは3人で調整が必要になりそう。来週はO mio babbino(パパbabbi、子供) caro (親愛なる) とドレミの歌のリクエストあり。他にはリハの訓練生が私のセッションに見学に来るらしい。こもれびのために、若草の時と同じように協力しようと思う。

 財団webも気になる(ありえないような質問がくるので今更驚愕)。ただ4月に自分でも気づかない間違ったリンク貼りをしていたのには「反省」。仕事してやることになるのは気が引けるけど「知識の集積に対する報酬だからいい」とKumiが言ったので気にしないことにする。未整備のウェブはあり得ないので。

7/21 こもれび職員からpianoの順番指定(「S氏, Mar, Shimさんの順で使うように」)あり。職員の目配り・知恵・体制に感謝(よく見ている!)Ms Aiにお手紙渡す。Mr. Shimとも楽しくTalk in En。介護士Miyaさんから「Mr. Shimの話してる時の楽しそうな顔を見て、職員一同感謝している」との言葉ありGood。でも、他の人と少し離れた席にいるのはノイズを避けるためとは…….知らなかった。こもれび”毒”おば(あ)さんMs. Mitからは、名指しじゃないけど「歯磨きはトットとやれ、洗面所でのお喋りは止めろ」と言われた。気をつけよう。フー、なかなか怖い(w)!

こもれびの花7/19

パパが集めてくれた権現山の野草たち。感謝!(でも、スマホを山に落としてきたのには怒)

7/25 猛暑にもめげず強度は気にせず着実にリハビリ。Wat PTのリハも難なくこなした。で、疲れない程度を考慮して読書。2023芥川賞受賞作「ハンチバック」。興味深く読んだ。が、読後感は複雑。もっと素直に心にひびく文章でストーリーを紡いでほしい。

【あらすじ】第128回文學界新人賞 受賞作品ハンチバック<「私の中で『ハンチバック』は裏卒論なんです。二つは同じことをテーマにしていて、卒論が小説を、小説が卒論を引き立ててくれたのだと思います。障害者と同性愛者の表象史の近接性についてゼミの先生と話していた際に、勧められたのが千葉雅也さんの小説『デッドライン』と『オーバーヒート』。今振り返ると、性風俗と学問を行き来する感じも含め、純文学の書き方のアプローチとして頭にインプットされたように思います」>

7/26 私の拙いピアノに合わせて金曜日の午後一緒に歌を歌っていた人が都合でpermanent入所棟に入り交流はなくなっていたが、リハビリの人から「Hiroseさんが『Marumoさんからもらった歌詞』と言ってエーデルワイスを歌っている」と聞いた。感動した。で、その日の午後、私が退所バスに乗り込んでから玄関まで見送りに来てくれたことを知った。髪を短くし元気そうだった。バスの中から思い切り手を振った。別に会えなくなるわけではないけれど、特別の懐かしいような寂しいような思いがした。人生はこんな風な出会いと別れで紡がれていくものだ。

7/29 Kato歯科医院受診:病気から1年7か月、歯科検診はつばさ歯科の病棟健診から1年4か月ぶり。10年来の虫歯以外は問題なし。(LINEより)「歯医者さん無事終了。上の奥歯は8/12に抜歯となりました。”その歯はもういらないから”と、抜歯後の入れ歯の話は出ませんでした。「自歯も多く全部で28本あるからもう要らない」とのこと。虫歯、歯槽膿漏とも無しです。ちょっとイヤだったのは、初診なのに検査もなく、処置が超特急、歯の磨きもテキトーみたいに感じました。その歯科医はKanaz区では有名なところですが、人を見て(金持ちかそうでもないか)治療内容が変わるのでも有名なんです。私は医療費無料なので「簡単治療」の部に入るのかなと思いました。⇒8/5 初診なのに歯の検査もXrayもなしでの抜歯は嫌なので8/12はキャンセル。もう行かないつもり。

7/31 月末は家族集合が多くてうれしい。猛暑の中を来てくれた二人とAeonで買ってきて再調理した(by Ken)ウナギお寿司で楽しく話をした。LAのMariも元気そうで何より。Kumiの仕事の成果の話もスゴかった。Kenはピアノを弾いてくれた、上手でびっくり。仕事では身内&家族メンバーの強力サポートはあるものの小企業では人材確保が難しいらしい。歩行練習はそこそこやっている。歩行「練習」というより「日常」になっていく。

8/2 Driver O氏と介護helperO氏が我が家に立ち寄って眺望とAmerican blueを鑑賞していってくれた。この日はコースの人数がたまたま少なく、私が最後だった。普通はDriverさんは家には来ないが「どんな家か見てみたい」とのことだったので「どうぞ」と申し出て入ってもらった。楽しかった。月曜から足の皮膚がかぶれて困っているが歩行訓練はいつも通りに実施した。

Driver O氏とは、ピアノのことで面白いやり取りもあった。(Lineより:ピアノですが、デイケアで右手ピアノをポロンポロンと弾いています。今日、大笑いしたことがあります。私がピアノを弾いていたらドライバーOさんが、「片手でよく弾くねぇ」と。(片手が不自由だから、やむなく片手で弾いてるんです!)その人は、皮肉やイヤミで言ってるのではなく全くなく、素直に「なかなかやるじゃないか、がんばれ」と言ってくれているのです。また、私のピアノが少なくとも騒音よりは音楽的と思ってくれているのかなと思いうれしくもありました。)

8/4 ピアノは順番を決めたはずなのにShimoさんは無視して25分占拠、かなり怒った。心が乱れて落ち着かなかった。13:30過ぎはBGMがオンになり「ピアノの音、聞こえなかったわよ」とのこと。通所者の希望に応えて弾いているのに、それは困る。ピアノ練習にもこだわってリハビリに行っている私には納得できない。でも金曜日はその後のShim氏との静かな場所での楽しいトークで気分は良くなった。


8/8 台風と猛暑の連続、いつまで続くのか!1週間前から左足横に靴擦れ(補装具ずれ?)のようなものができて治療中。歩行練習もやや恐る恐る・・・。空いた時間にZaidanのWeb更新案作成。こちらは、つい力が入り、やきもきする。力を抜いて自分のできる範囲でやることが大切!(4月に続いて7月も委託業務実施Good)

Mari Simonはそれぞれ精一杯頑張っている、単純にうれしい。ほかの2人は言うまでもない。4人で「国が作れる」と言った人がいる(笑)

[孫たちはみんな元気でそれぞれ楽しくがんばっています。一番上の**大の子は8月に大学院の入試(英語はTOEICで**00点とったのでクリア)、2番目は国立大医学部目指して浪人中、3番目の**中等高等学校3年生は今LA,&SFでホームスティ中、**は***区の平和使節団で5日から7日まで広島。**中学の英語の成績はボロボロだそうですけど。。。

★7/29 家で時間があったので秋のイラストと罫線を作った。Good!



6/17-23天皇皇后のインドネシア訪問。インドネシアの公共(?)放送の式典の模様を庭園全体を俯瞰した映像で見ると、日本のメディアの天皇皇后だけに注目した画像と違い過ぎて、超楽しく面白かった。Joko大統領が記念植樹の時、用具やお手拭きなどのお世話まで全部ご自分でするのには、ほほえましいというかびっくり! 宮殿バルコニーで4人そろって楽しそうにおしゃべりし、そのあとゴルフカートを大統領が運転して植物園見学となり、お付きの人が慌てて自転車で追いかけていておかしかった。笑い過ぎた。

LIVE: Kunjungan Kenegaraan Kaisar Jepang Naruhito dan Permaisuri Masako, Istana Bogor, 19 Juni 2023

kaisar jepang hanya berkenan bertemu atau mengunjungi orang yang beliau benar2 hormati,ini adalah momen spesial bagi negara kita ,bahkan bertemu pemimpin dunia seperti presiden Amerika atau eropapun beliau jarang sekali

日本の天皇は、本当に尊敬する人々とのみ面会または訪問することをいとわない、これは我が国にとって特別な瞬間である。彼はアメリカやヨーロッパの大統領のような世界の指導者に会うことさえめったにない。

Selamat datang di Indonesia : Kaisar & Permaisuri dari Jepang. Untuk Bapak Presiden & Ibu Iriana yang saya hormati sehat selaluインドネシアへようこそ:日本の天皇皇后両陛下。 尊敬する大統領ご夫妻、いつまでもお元気で🙏

ジョコ=ウィドド(通称ジョコウィ) 2014~現在 貧しい大工の家に生まれ、木材会社を興し、地方都市の市長となって実績を上げ、14年大統領選挙に党争民主党から出馬、スハルトの娘婿で軍人の対立候補を破って当選、インドネシアで初めて軍人でもエリートでもない大統領の登場に世界が驚いた。当初はその手腕が疑問視されたが都市の再開発、貧困対策、汚職・麻薬撲滅などで国民の支持を高めている。大統領選挙の公約で首都の移転を掲げ、ジャカルタから東カリマンタンへの遷都が2024年に予定されている。庶民派として人気が高いが、多民族国家としてのインドネシアの舵取りに注目が集まっている。<2022/1/11>

インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史 -残留日本人団体「福祉友の会」の分析を中心にして-

※6/20荻上チキのラジオで太平洋戦争と日本のインドネシア軍事占領(植民地支配とは異なる)についての話をしていた。女性の学者のお名前を忘れてしまった。2003年PRDUでオランダ人マルコからインドネシア軍事支配における日本(軍)の残虐行為について「知っているか?」と訊かれたことを思い出した。

インドネシア:

東南アジアの諸島部の多くの島々からなる大国。インドの影響を受けたヒンドゥ教・仏教が栄えた時代から15世紀からのイスラーム化を経て、17世紀からオランダの植民地支配か続いた。1942日本の軍事支配の後、第二次世界大戦後に独立し、スカルノの指導のもとで第三世界の有力な一角となった。1965年の九・三〇事件で実権を握ったスハルトは、開発独裁を進め、経済を成長させた。1997年のアジア通貨危機で独裁体制は倒れ、民主化が進んだが、東ティモール、アチェなどの分離運動を抱え、政情は安定しなかった。広汎な領域に島々が分散する多民族国家であるため、「多様性の中の統一」を常に国是として掲げている。

インドネシア(3) 日本軍の侵攻と軍政 「世界史の窓」より
太平洋戦争の過程で、1942年1月に日本軍がオランダ領東インドへの侵攻を開始、3月にオランダ軍を降伏させ、占領した。日本はジャワとスマトラを分離して統治し、軍政下に置いた。

 長期化した日中戦争の打開を図る日本軍は南進策をとり、フランス領インドシナを制圧し、さらに南下してオランダ領東インドであるインドネシアの島々を支配下に治めようとした。それはアメリカが対日石油輸出を禁止し、石油資源の不足が問題となったからであった。そのような資源を確保しようという意図から、太平洋戦争の開始に伴い、日本軍はオランダ領東インド攻略作戦をたて、インドネシアへも侵攻した。
 まず、1942年1月10日のタラカン島とスラウェシ島への上陸作戦から始まり、2月にはスマトラのパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。次いで3月1日にジャワ島の三カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏した。日本はインドネシアを三分割し、陸軍第25軍がスマトラ、同第16軍がジャワ島、海軍がスラウェシその他の島々を統治した。

日本軍のジャワ・スマトラ分離統治

 日本軍部は、スマトラ島とマレー半島部のマレー人の種族的一体性を重視していた。そのため、軍政上は、スマトラはジャワから分断され、マレー半島と一体のもとして扱われた。これは、シュリーヴィジャヤ、マラッカ王国の伝統が、侵略者の都合でかりそめに復活したにすぎなかった。この分断政策は、占領後期には放棄され、戦後は、ジャワ・スマトラなど島々にはオランダ支配が、マレー半島にはイギリスの支配がふっかつしたため、二つの植民地は別々の途を歩むことになる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.309>

日本の軍政

 1942年3月から1945年8月まで、インドネシアに対する日本軍による軍政が行われた。日本は太平洋戦争の大義名分として、アジアの解放を実現し「大東亜共栄圏」を建設することを掲げていたが、実際には石油などの軍需物資を確保するためにインドネシアを支配することが狙いであった。
 インドネシアにもスカルノなどの民族主義運動の中には、オランダからの独立のために日本軍に協力する姿勢を示したものも多かった。日本軍は祖国防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど軍事組織や隣組制度などを導入して統治に当たったが、軍政後半の44年3月には「ジャワ奉公会」を組織して、人的資源を「ロームシャ(労務者)」として動員し、生産活動に振り向けた。スカルノは、この時日本軍に協力し、自ら労務者徴募の先頭に立った。しかし一方で、このような日本の軍政に対し、いくつかの反日抵抗運動も起こっている。防衛義勇軍の反乱、米の供出を拒んだ農民の反乱、西カリマンタンの土侯らによるポンティアナック事件(軍事裁判で2130人が処刑されている)などである。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.312,360 なっどによる>

今も残るロームシャの悪夢

 日本軍政下でインドネシア民衆の義務となったのが戦争遂行に徴用した「労務者」である。労務者という言葉は、そのまま「ロームシャ」としてインドネシアに定着し、今もその言葉とともに記憶として残されているという。
(引用)各州は常に500人以上の労務動員が可能な態勢を整えていなければならなかった。この政策で駆りだされたジャワ人は20万とも30万ともいわれ、しかもその90%は帰還できなかったという。その多くがニューギニア方面の苦戦に投入され、放置されたのである。今日でも、ロームシャは、ケンペイとともに、インドネシア人の悪夢となっている。1973年にジャワで『ロームシャ』という映画が製作され、ごく一部で公開されたが、不思議なことにすぐ消えてしまった。日本商社が買い占めたのだというのが現地の噂である。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.315>

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3/19以降、ガーデン散歩はできないでいた。力が付いているのはわかっていたが花壇まで出る勇気がなかったり、室内歩行のほうが安全なように思ったり人手が揃わなかったり天候が悪かったり。

6/18朝は、気温が26度とやや高かったが湿度はさほど高くなく、海から良い風が吹いていた。花壇まで行き、これまでは戻るときのエネルギーを気にしてたけど、今日は1号棟の端まで、中庭のオリーブの木の下のベンチまで行けそうな気がした!そう思ったら行けた‼

久しぶりの花壇は私を歓迎してくれた。薔薇紫陽花だけでなく、コスモス、雛菊、ヤグルマギク、それにグロリオサ(Gloriosa superba L.)<キツネユリ(狐百合)、または葉が輪生するのでユリグルマ(百合車)>もたくさん咲いていた。帰りには白いバラを手折って持たせてくださった方もいた。感謝!

紫陽花

薔薇

雑草(「調べないと名前がわからない草」)

今日の私

車椅子で戻る途中、花壇であった人から薔薇の切り花をいただいた。

薔薇とワイルドキャロット(野良人参)

ハイムガーデン散歩日誌 9/15-2/5

ハイムガーデン散歩_6

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Audible で中西進による万葉集の「貧窮問答歌(びんぐうもんどうか)」についての研究解説を2度じっくり聞いた。「清貧」に甘んじることを美徳とする日本についての憶良のものの見方について、目からうろこの内容だった。「子等を思ふ歌」の解釈も学校で勉強したこととは全く異なり、子をいとおしむ歌などではなく、逆に「Logosを重んじ自分を律して生きる『士(男の子)』のとるべき態度がそれでよいのか?」と問う歌だった!

講演 歴史社会

「貧窮問答歌」で生き方を説いた゛知”の万葉歌人山上憶良

中西進(奈良県立万葉文化館館長)

異端の万葉歌人・憶良を知る

「清貧」に甘んじることを美徳とする日本において、憶良はまったく反対の考えを持っていた。恋愛の歌が多い万葉集の中で、「貧乏」をテーマとした憶良という特異な歌人について中西先生が語る。「万葉歌人・山上憶良。その原点は朝鮮半島生まれの「在日」という生い立ちにあった。「貧窮問答の歌」など貧困・病苦・老い・生死を見つめたリアルな社会派詩人—-憶良の歌う悲しみは、現代に通じる悲しみである。」(「悲しみは憶良に聞け」中西 進著 単行本:解説より)

「小学館」のページより

貧窮問答歌」をご存知でしょうか? 日本最古の和歌集「万葉集」におさめられている山上憶良の歌。『万葉集』巻五所収の長歌と反歌1首。奈良時代初期の歌人山上憶良作。貧しい者とそれよりもさらに貧しい者とが,貧乏生活を問答の形で述べ合ったもの。そこに示された貧窮の様相は写実的で,班田制下の農民の姿を余すところなく伝えている。


貧窮問答歌の代表的な部分

竈(かまど)には 火気(けぶり)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く

此(こ)の時は 如何(いか)にしつつか 汝(なんじ)が世は渡る

世間(よのなか)の道 世間を憂(う)しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
貧窮問答歌の「答え」にあたる歌の最後の部分。

貧窮問答歌の作者、山上憶良とは

「小学館」編集のサイトでは「生まれたのは、660年ごろといわれていますが、具体的な日時は不明」としていますが、中西進ははっきりと朝鮮百済からの渡来人(4歳で渡航)としての identity とConpitency (abilityとは異なる”対応力”(適応能))を持った人物としていて説得力があります。

山上憶良が「貧窮問答歌」「子等を思ふ歌」など異色の歌を作ったのはなぜか?

2022/5/25 2022/10/29 芸術・科学技術・芸能(テレビ)・文化

山上憶良

山上憶良と言えば、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉(たま)も何せむにまされる宝子に如(し)かめやも」という「子等を思ふ歌」が有名で、万葉集にも多くの歌が収録されていますが、「貧窮問答歌」など他の歌人とは違った思想性・社会性を帯びた異色の作風です。

なぜ彼はこのような歌を作ったのでしょうか?

1.山上憶良とは

山上憶良(やまのうえのおくら)(660年~733年頃)は奈良時代の官人・歌人で、出自については不明ですが百済系渡来人説など諸説あります。「百済系渡来人説」を唱えたのは、「令和」の元号考案者として有名になった万葉学者の中西進氏(1929年~ )です。憶良は、天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人の憶仁の子で、百済の滅亡に際して父とともに日本に渡来し、近江国甲賀郡山直郷に住みつき、山上氏を称するようになったということです。

702年、42歳の時に遣唐使の随員(無位山於憶良)として唐に渡り、704年に帰国後は伯耆守・東宮侍講を経て筑前守となり、大宰府で太宰帥(だざいのそち)の大伴旅人(おおとものたびと)(665年~731年)らと交わり「筑前歌壇」を形成しています。遣唐使の随員に選ばれたのは、漢文学の学識を認められたからだと思われますが、官位もなく、下級役人でした。

しかし、唐で最新の学問を修めて帰国した彼は、伯耆守に任じられ、さらには皇太子(後の聖武天皇)に学問を教える東宮侍講に抜擢されています。聖武に仕えた彼は出世のパスポートを手に入れたように見えます。しかし、何かの失敗をしたのか、天皇や藤原氏から嫌われたのか不明ですが、聖武天皇が即位直後の726年頃に筑前守として九州に左遷され、中央政界から遠ざかります。

一般的に官人は地方で蓄財して都に戻るものですが、彼は後に都に戻っても貧困のままだったようです。彼の清廉で真面目なところが藤原氏に嫌われたのかもしれません。

余談ですが、菅原道真は学者一族出身ですが、出世意欲・上昇志向が強く、藤原氏と競って右大臣にまで上り詰めますが、藤原氏の讒言によって太宰府に左遷されました。憶良は道真ほど出世することもなく、大宰府に左遷され、都に戻った翌年に不遇のうちに亡くなったようです。

2.山上憶良が思想性・社会性を帯びた異色の歌を作った理由

彼の歌は哀愁の漂うしみじみとしたものが多くなっています。病気や貧困、老いや死など庶民の苦難をテーマにしたものが多く、「相聞歌」(恋の歌)や「雑歌」(儀式の歌)は作っていません。彼は律令体制下の重圧に喘ぐ人々に、門閥もなく出世の道を閉ざされた不運な自分の境遇を重ね、思うように行かない現実と知識人としての自負と苦悩を表現したかったようです。

彼は柿本人麻呂(660年頃~724年)や山部赤人(?~736年?)を中心として花開いた万葉の世界にあって、人麻呂のような儀礼的な歌を歌わず、赤人のような叙景的な歌も詠みませんでした。万葉集に多い恋の歌もありません。それよりも世の中の貧しい人々のため息、子を思う気持ち、老残の身の苦しみこそ、彼が歌を通じて訴えたかったことです。

「貧窮問答歌」は地方役人として農民たちの生活の困窮ぶりを間近に見て、それを貧者とさらに貧しい貧者との問答とした長歌と反歌一首です。朝廷の地方役人の立場の彼が、民の側に立ったこのような歌を詠んで大丈夫なのかと他人事ながら心配になりますが、このように訴えなければならないほど庶民の困窮はひどいものだったということでしょう。

3.山上憶良の歌

(1)子等を思ふ歌

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ   ・銀も 金も玉も なにせむにまされる宝 子にしかめやも

(2)貧窮問答歌

(3)秋の七草の歌

なお、彼の歌で異色なものに2首の「秋の七草」の歌(2首目は「旋頭歌(せどうか)」)があります。 ①秋の野に咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花 ②萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花姫部志(をみなへし)また藤袴朝貌(あさがほ)の花

※ 山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた憶良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。

※ (中西)憶良は(子を思うような)「凡庸」を否定した。憶良の周りにある「社会」(約束事)の存在を意識し、その中でも「(律令)官僚」の存在を意識し、その中心になろう、理想的な存在になりたいと欲した。

”士(をのこ)やもむなしくあるぺき万代に語り継ぐべき名は立てずして                        

士であるためにはConpitency(応答能) をもち世の中の名声を得ることが大切だと思い憧れていたのではないか。百済経由の大陸文化を身につけた知の人新しい時代が生んだ歌人であった。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑り
雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば
堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆさけ)
うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて
人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば
麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り布肩衣(ぬのかたきぬ)
ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを
我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ
妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ
この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

【訳】風まじりに雨が降る夜、雨まじり雪降る夜はどうしようもなく塩を舐めながら糟湯酒をすすり、咳をしながら鼻をすする。

少しはでているヒゲをなでて、自分より優れたものはいないだろうとうぬぼれているが寒くて仕方がないので、麻の布団をかぶって
麻衣を何枚重ねても寒い夜だ。

私よりも貧しい人の父母は飢えてこごえ、妻子は泣いているだろう。どうやってあなたは暮らしているのか。

天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは
狭(さ)くやなりぬる 日月は明しといへど
吾がためは 照りや給はぬ 人皆か
吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを
人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の
海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ
肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に
直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に
妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ
竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には
蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて
ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を
端切ると 言えるが如く しもととる
里長(さとおさ)が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術なきものか 世の中の道

世間を憂しとやさしと思へども

飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

【訳】天地は広いというが、私には狭い。太陽や月は明るいというが、私のためには照らしもしない。他の人も皆そうなのか、私だけなのか。

人として生まれ、人並みに働いているのに綿も入っておらず海松のように破れて垂れ下がったものばかりを肩にかけて、つぶれかかり曲がって傾いた家の中には、地面に藁を敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、私を囲むようにして悲しんだりうめいたりしている。

かまどには火の気もなく、米をにる器には蜘蛛の巣がはって飯を炊くことも忘れてしまったようだ。

かぼそい声を出していると、「短いもののはしを切る」とでも言うように鞭をもった里長の声が寝床にまで聞こえる。

世の中というのはこれほどどうしようもないものなのか。この世の中は辛く、身も痩せるように耐え難く思うけど、飛んでいくこともできない。鳥ではないのだから。

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