◆天皇と「公務」
(論壇時評)天皇と「公務」 「お言葉」を受け、考える
歴史社会学者・小熊英二
2016年8月25日05時00分
8月8日、天皇の「お言葉」が放送された〈1〉。私は公務の重さの訴えと「自粛」の混乱を避けたいという配慮を聞き、退位の希望を尊重すべきと思った。
しかし私は、違和感も持った。なぜそうした希望や配慮が、ビデオメッセージで放送されなければならないのか。
すでに7月、宮内庁関係者からの情報として、生前退位の意向が報道された。明治天皇の玄孫(やしゃご)である竹田恒泰は、「本来このような形で公にしてはいけないことであった」と述べている〈2〉。
竹田によれば、「陛下の側に侍(はべ)る者が、陛下のお考えを外部に漏洩(ろうえい)することは、国家公務員法に抵触するおそれがあり、天皇の政治利用の誹(そし)りを免れない」。「政治課題である皇室制度を議論する上で、陛下が政治的に意見を発せられることは、憲法を逸脱する可能性があり」、「そのことは、憲法遵守を明言なさった陛下が最も大切になさっていらっしゃることと拝察される」。
となれば、「内々に陛下の御意向を伺い、政府が必要と判断すれば譲位の一件を政府として準備を進め、その様子を見ている国民は『きっと総理が内々に陛下のお考えを聞いて進めているに違いない』と勝手に思い、暗黙の了解下で粛々と手続(てつづき)が進められるのが本来の進め方である」。私も法制度的にはこれが「本来」だと思う。
それでは、天皇が直接に国民に訴えた今回の行為は法的にどう位置づけられるのか。憲法学者の横田耕一は、天皇の行為には「国事行為」「私的行為」「公的行為」の三つがあるという〈3〉。
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このうち国事行為は、国政に権能を有しない天皇が、「内閣の助言と承認」で行う儀礼的行為である。例えば、国会の召集や栄典の授与などがそれにあたる。
私的行為は、一個人としての行為である。一人の人間として、好きな本を読んだり、知人と会話したりするのに、内閣の助言と承認は必要ない。宮中祭祀(さいし)も、法的にはここに入る。
では被災地を訪れたり、外国を訪問したり、外国元首と親書を交わしたりするのはどうか。これらは一人の人間としてではなく、天皇として行うのだから、私的行為ではない。だが憲法が規定した国事行為でもない。政府見解では、これらは「象徴としての地位に基づいて、公的な立場で行われるもの」であり、「公的行為」ないし「公務」とされている。
「お言葉」で負担が述べられている「公務」の多くは、この「公的行為」である。東日本大震災時のビデオメッセージも「公的行為」と考えられよう。
政府見解では、これらは法的には限定がなく、内閣の助言と承認も必要ない。ただしそれは、政治的意味や政治的影響力を持つものではあってはならず、内閣が責任を持つことになっている。
なぜ、そう規定されているのか。天皇に責任が問えないからである。
公務を執行する者は、例えば大臣や議員や官吏といった、公務員の資格を与えられる。執行した公務で著しく公益を害したら、免職されるか、選挙で選ばれなくなるという形で責任が問われる。
しかし天皇の地位は終身であり、世襲である。通常の公務員のような形では、責任を問えない。憲法では、天皇の権能は「内閣の助言と承認」、つまり内閣の責任の下で行う「国事に関する行為のみ」と規定されている。既成事実の形で行われている「公的行為」でも、内閣が責任を負うことになっているのだ。
仮定の話だが、天皇が外国元首と交わした親書の文面がもとで、国際関係が損なわれたとしよう。そうなれば内閣が責任を負うしかないが、政治は混乱し、天皇の責任と地位に関する議論も起ころう。そんな事態を未然に防ぐには、天皇の公務上の発言や行為は、政治的影響力を持つものであるべきではないはずだ。
原武史は、被災地訪問や慰霊といった「公務」が増えたのは、平成になってからだと指摘している〈4〉〈5〉。法的に限定がないので、天皇のイニシアチブによって拡張しやすい領域といえる。
一人の人間としては、天皇にも言論の自由があろう。だが、重大な影響力があるのに責任が問えない天皇の地位を考えれば、法改正に関係する意見表明にまで「公務」が拡大されるべきでない。退位の希望を尊重することと、それを「公務」の一環で発言する是非は別問題だ。今回の件をしっかり議論しないと、「公務」で天皇が政治案件の意見を表明することが慣例化する可能性がある。
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国民の中には、政治への苛立(いらだ)ちから、天皇に政治的発言を期待する声もある。横田によれば、現天皇が憲法順守を表明しているため、「歴史認識や原発再稼働・改憲問題で天皇に期待する者まで現れている」。だがそうした人は、天皇が天皇として政治的発言をする前例を作れば、様々な方向での政治利用と混乱も招来しかねないことを知るべきだ。
今回のビデオが国の予算で作成され、放送を想定して配布されたなら、それは「私的行為」でなく「公務」と考えられる。それに対しては内閣が責任を負っているはずだが、その責任のあり方がみえない。また、事ここに至るまで、内閣は何をしていたのかという意見もあろう。
西村裕一が言うように、「宮内庁や内閣の責任追及を可能にするためにも、メディアには一連の経緯を検証することが求められ」る〈6〉。それは日本が国家としての安定と秩序を維持するため、欠かせないことであるはずだ。
〈1〉「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(宮内庁ホームページ、http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12#41)
〈2〉竹田恒泰「なぜ明治以降に『譲位』がなかったのか」(正論9月号)
〈3〉横田耕一「憲法からみた天皇の『公務』そして『生前退位』」(世界9月号)
〈5〉原武史・河西秀哉(対談)「『生前退位』は簡単ではない」(中央公論9月号)
〈6〉西村裕一「耕論/象徴天皇のあり方」(本紙8月9日付)
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おぐま・えいじ 1962年生まれ。慶応大学教授。『単一民族神話の起源』でサントリー学芸賞、『〈民主〉と〈愛国〉』で大佛次郎論壇賞・毎日出版文化賞など、著書での受賞多数。監督を務めた映画「首相官邸の前で」で日本映画復興奨励賞。
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