そっと 静かに
明け方の歌  韓江

明け方に目覚めて  空を見上げた  闇が晴れて  青い光が滲んだ  もくもくと立ち上る雲は  どこへ流れゆくのか  一つ、また一つと目覚める木々  枝を伸ばす

こんなにも美しい世界が  私のそばにあったなんて  あなたの目元に宿る  眉みたいな有明月  私も青い翼を広げ  後について飛び立つの  青々とした花火みたいな木々  枝を伸ばすとき  生きているってなんだろう  生きていくってなんだろう  答えは必要ない  あの青い花火のように

麦畑  作詞:パク・ファモク 作曲:ユン・ヨンファ  보리밭 麦畑

麦畑のあぜ道を歩いていくと  誰かの呼ぶ声がして  歩みを止める  思い出が苦しくて  口笛を吹くと  美しい歌が耳元に聞こえてくる  振り返ると誰も見えず  夕焼け空だけが目の前に広がる
[함께 부르는 가곡] 보리밭麦畑 (Song. 유채훈) | 예술의전당  歌手ユ・チェフンさん
보리밭  사잇길로 걸어가면
麦畑 間の道を 歩いていけば

뉘 부르는 소리 있어
誰かの 呼ぶ 声が あって

나를 멈춘다
私を 止める

옛 생각이 외로워
昔の 思い 心細くて

휘바람 불며
強い風 吹き

고운 노래 귓가에 들려온다
美しい 歌 耳元に 聞こえてくる

돌아보면 아무도 뵈지 않고
振り返ると 誰も 見えなくて

저녁놀 빈 하늘만
夕日 がらんとした 空だけ

눈에 차누나
目に 満ちる

ハングルを楽しみながらお勉強

車椅子ダンス  涙はもう日常になりました  でも それが私を完全に破壊することはなかった  悪夢も もう日常になりました  全身の血管を  燃やし尽くすような夜も  私を完全に打ちのめすことはできない  見てください 私は踊っています  燃え立つ車椅子で  なんの魔術も秘法もありません

ただ、いかなるものも私を完全に破壊できなかっただけ  見てください 私は歌っています  全身で燃え立つ車椅子  見てください 私は踊っています  全身で火を噴く車椅子  どんな記憶も  罵りや墓場、あのひどく冷たいみぞれすらも  最後の私を打ち砕けなかっただけ  ただ、いかなるものも私を完全に破壊できなかっただけ  見てください 私は歌っています

全身で火を噴く車椅子  見てください 私は踊っています  全身で燃え立つ車椅子     <車椅子ダン>



金 素月(キム・ソウォル、1902年陰暦8月6日 – 1934年12月24日[1])は、大韓帝国の詩人。本名は金 廷湜(キム・ジョンシク)。素月は号。김소월 Kim So-wol 裕福な家庭であったが素月が2歳のとき父が日本の鉄道敷設工事に従事中、日本人による殴打により精神に異常をきたす。

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宮芳平画文集 野の花として生くる。が届いた。何の装いもなく野の花や自然なるもの、自分の生と絵への憧れ、美術教師としての喜び悩みをつづった画文集。ミレーになろうとし、ゴッホやセザンヌにも見えるような絵をひたすら描いた。美しい画集だ。(Yoshihei Miya: 1893-1971, age77)  2011:「路傍の聖者ー宮芳平展」


雪解くる頃
「川の縁を通る時に 水の匂がしました  都会の人よ 水の匂を知っているか  いい匂です すがすがしい匂です  この匂がすると 春が来るのです ・・・」「雪解くる頃」

練馬美術館で見た「自画像」

「地面に落ちた草の種が、そこから芽を出し生え出るように、俺も自分が置かれた場所から芽を出し生え出る、そこがあまりいヽ地面で奈かったとしたところで、それが何としやう、芋の種は決してそこから動かない・・・」

自画像

「路傍の聖者ー宮芳平展」2011

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ミヤマイチゲ

テレビドラマ「らんまん」で牧野富太郎が描いた「やまざくら」の美しい絵を見て本が欲しいと思った。

(出版社siteより) 牧野富太郎の名著『牧野新日本植物図鑑』の縮刷携帯版。日本産・帰化植物2,300種を収載す。高等の種から下等な種へと配列し、特に大きな15科については著者牧野富太郎博士が書かれた体制図を挿入した。巻末には、解説文中に頻出する植物学に必要な「用語図解」と「植物採集法」を付した。

学生版 牧野日本植物図鑑 ¥1,414 Kindle版 2023/7/21

やまざくら

でも、本当に見つけたいのは、あの幻の「イチゲ」私が記憶している”tenten parapara“を忘れないうちに、故郷の植物学者か市役所にでも照会してみようか?と思いついた。

やまざくら「Prunus donarium Sieb. var. spontanea
Makino〔ばら科〕」

さくらの代表者で近畿地方に多く、 東京付近のそめいよしのと異り, 花は新葉 と共に咲き、我が国のおおやまざくら, さとざくらまた中国や朝鮮のまんせんざ くらとともに東アジアの名物である。 日本では従来花といえばさくらをさし 花 見月見 雪見として民族の愛賞するところである。 〔図解] 1. 花枝 2. 花序 3. 花序の中軸 4, 5. 苞 6. 花弁を除いた 花 7. 花の縦断面 8. がくの裂片 9. 花弁 10. 長形の雄しべ 11.10の 腹面 12. 短形の雄しべ 13. 花粉側面 14. 花粉の上面 15. 雌しべ 16. 子 房の縦断面 17. 子房の横断面 18, 19. 桂頭 20. 花式

「牧野図鑑」からのテキストコピー

きくざきいちりんそう Anemone altaica Fisch. (きんぽうげ科):山野にはえる多年草で、 高さ10~20cm位。 根茎は地中を横にのびる。 茎は単一で直立する。 根生葉は柄があり, 包葉は茎の先にあり3葉輪生。 4~5月頃, 包薬の中心から花柄を1本だ し、先端に淡紫色の花を開く。 花径は2.5~4cm位。 がく片は花弁状で10~13位。 花弁なし。 雄 しべ 雌しべ多数。

1454 あずまいちげ Anemone Raddeana Regel 【きんぽうげ科 ]:中部や北部の山地の樹下にはえる多年草。 根葉は横にのび, 先端に隣片がある。 根生葉は花 がすんだ後にのび, 長柄で長さ10~15cm, 蒼緑色で無毛平滑。 早春, 茎の先端に3個の葉状包 をつけ、包葉の中心から直立した花茎1本をだし白色の花を開く。 がく片花弁状で10内外。 花 弁なし。 雄しべ 雌しべ多数。

1455 ゆきわりいちげ Anemone Keiskeana T. Ito 【きんぽうげ科]:関西の竹やぶや山すその林下にはえる多年草。 根茎は横たわり, 紫色をおびる。 根生葉は長 柄で、葉の上面は紫色の斑紋があり, 下面は紫色。 早春, 10cm内外の茎を1本出し, 茎頂に 状包3個つけ, この中心より花茎を1本直立し白色花を開く。 がく片は花弁状で15位。花弁な し 雄しべ 雌しべ多数

オクノアズマイチゲ(my site)   アズマイチゲ(野山の花たち -東北と関東甲信越の花-) 

9/3 Bingミヤマイチゲ(深山一華)

こちらはBingです。山形県南陽市金山地区の白い花について。次に、白い花については、おそらく「ミヤマイチゲ」(学名:Anemone pseudoaltaica)という種類の花だと思われます。ミヤマイチゲは、アズマイチゲやオクノアズマイチゲと同じキンポウゲ科イチゲ属の多年草で、日本では東北地方から北海道に分布し、山地の草原や林縁などに生えます3。花期は4月から5月で、白色または淡紅色の花を咲かせます3。花弁は6枚で、長さは約2cmです3。茎の高さは15-30cmぐらいで、茎の下部に3出複葉がつきます3。

ミヤマイチゲ(深山一華) ameblo
山野草の花がいっぱい | katous-mineralのブログ
ラヴィラントのブログ
ミヤマイチゲ

http://www.xn--dckxd8db4cd3409epi5c9sb.tokyo/upload/detail/image/IMG_0121.JPG.html

キクザキイチゲ : 

キクザキイチゲ : キンポウゲ科イチリンソウ属
Anemone pseudo-altaic
北海道から近畿地方以東の本州の山地の林や草原に生える多年草
花弁状の萼片は線状長楕円形で8~13個
淡紫青色~白色
雄しべ、雌しべとも多数 葯は白色

「寧楽悠々自然流」サイト  キクザキイチゲ

キクザキイチゲ 春の野山

(Me) 山形県南陽市金山地区を流れる吉野川の堤防に、毎年早春(4月ごろ)に咲く、白い花の正式な名前が知りたいです。図鑑で見ると「アズマイチゲ」「オクノアズマイチゲ」が近いです。一輪草で、丈は15-20cmぐらいでした。置賜地方で山野草の研究している方のウェブサイトなどがありましたら、教えてください。

ChatGPT
山形県南陽市金山地区で毎年早春に咲く白い花で、アズマイチゲ(東一華)またはオクノアズマイチゲ(奥野東一華)に似ているという特徴を持つ一輪草は、おそらく「オクノアズマイチゲ」(学名: Eranthis stellata)である可能性が高いです。オクノアズマイチゲは、山形県や置賜地方などの寒冷地域で見られる花で、15-20cmほどの高さに白い花を咲かせます。

一般的に、地域の山野草に関する情報を収集するためには、地元の自然愛好者や植物愛好者のコミュニティやウェブサイトが役立つことがあります。地元の植物愛好者のコミュニティに参加する:地元の園芸クラブ、自然保護団体、または植物研究グループに参加することで、地域の山野草に関する情報を入手できるかもしれません。

オンライン植物図鑑を利用する:インターネット上には植物図鑑のウェブサイトが多く存在し、植物の写真を検索して正確な情報を得ることができます。日本の植物に特化したオンライン植物図鑑を検索して利用してみてください。地元の大学や研究機関に問い合わせる:地元の大学や研究機関に連絡を取り、地域の山野草に関する研究を行っている研究者やプロジェクトについて尋ねてみることも有益です。

「牧野図鑑」より

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Audible で中西進による万葉集の「貧窮問答歌(びんぐうもんどうか)」についての研究解説を2度じっくり聞いた。「清貧」に甘んじることを美徳とする日本についての憶良のものの見方について、目からうろこの内容だった。「子等を思ふ歌」の解釈も学校で勉強したこととは全く異なり、子をいとおしむ歌などではなく、逆に「Logosを重んじ自分を律して生きる『士(男の子)』のとるべき態度がそれでよいのか?」と問う歌だった!

講演 歴史社会

「貧窮問答歌」で生き方を説いた゛知”の万葉歌人山上憶良

中西進(奈良県立万葉文化館館長)

異端の万葉歌人・憶良を知る

「清貧」に甘んじることを美徳とする日本において、憶良はまったく反対の考えを持っていた。恋愛の歌が多い万葉集の中で、「貧乏」をテーマとした憶良という特異な歌人について中西先生が語る。「万葉歌人・山上憶良。その原点は朝鮮半島生まれの「在日」という生い立ちにあった。「貧窮問答の歌」など貧困・病苦・老い・生死を見つめたリアルな社会派詩人—-憶良の歌う悲しみは、現代に通じる悲しみである。」(「悲しみは憶良に聞け」中西 進著 単行本:解説より)

「小学館」のページより

貧窮問答歌」をご存知でしょうか? 日本最古の和歌集「万葉集」におさめられている山上憶良の歌。『万葉集』巻五所収の長歌と反歌1首。奈良時代初期の歌人山上憶良作。貧しい者とそれよりもさらに貧しい者とが,貧乏生活を問答の形で述べ合ったもの。そこに示された貧窮の様相は写実的で,班田制下の農民の姿を余すところなく伝えている。


貧窮問答歌の代表的な部分

竈(かまど)には 火気(けぶり)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く

此(こ)の時は 如何(いか)にしつつか 汝(なんじ)が世は渡る

世間(よのなか)の道 世間を憂(う)しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
貧窮問答歌の「答え」にあたる歌の最後の部分。

貧窮問答歌の作者、山上憶良とは

「小学館」編集のサイトでは「生まれたのは、660年ごろといわれていますが、具体的な日時は不明」としていますが、中西進ははっきりと朝鮮百済からの渡来人(4歳で渡航)としての identity とConpitency (abilityとは異なる”対応力”(適応能))を持った人物としていて説得力があります。

山上憶良が「貧窮問答歌」「子等を思ふ歌」など異色の歌を作ったのはなぜか?

2022/5/25 2022/10/29 芸術・科学技術・芸能(テレビ)・文化

山上憶良

山上憶良と言えば、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉(たま)も何せむにまされる宝子に如(し)かめやも」という「子等を思ふ歌」が有名で、万葉集にも多くの歌が収録されていますが、「貧窮問答歌」など他の歌人とは違った思想性・社会性を帯びた異色の作風です。

なぜ彼はこのような歌を作ったのでしょうか?

1.山上憶良とは

山上憶良(やまのうえのおくら)(660年~733年頃)は奈良時代の官人・歌人で、出自については不明ですが百済系渡来人説など諸説あります。「百済系渡来人説」を唱えたのは、「令和」の元号考案者として有名になった万葉学者の中西進氏(1929年~ )です。憶良は、天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人の憶仁の子で、百済の滅亡に際して父とともに日本に渡来し、近江国甲賀郡山直郷に住みつき、山上氏を称するようになったということです。

702年、42歳の時に遣唐使の随員(無位山於憶良)として唐に渡り、704年に帰国後は伯耆守・東宮侍講を経て筑前守となり、大宰府で太宰帥(だざいのそち)の大伴旅人(おおとものたびと)(665年~731年)らと交わり「筑前歌壇」を形成しています。遣唐使の随員に選ばれたのは、漢文学の学識を認められたからだと思われますが、官位もなく、下級役人でした。

しかし、唐で最新の学問を修めて帰国した彼は、伯耆守に任じられ、さらには皇太子(後の聖武天皇)に学問を教える東宮侍講に抜擢されています。聖武に仕えた彼は出世のパスポートを手に入れたように見えます。しかし、何かの失敗をしたのか、天皇や藤原氏から嫌われたのか不明ですが、聖武天皇が即位直後の726年頃に筑前守として九州に左遷され、中央政界から遠ざかります。

一般的に官人は地方で蓄財して都に戻るものですが、彼は後に都に戻っても貧困のままだったようです。彼の清廉で真面目なところが藤原氏に嫌われたのかもしれません。

余談ですが、菅原道真は学者一族出身ですが、出世意欲・上昇志向が強く、藤原氏と競って右大臣にまで上り詰めますが、藤原氏の讒言によって太宰府に左遷されました。憶良は道真ほど出世することもなく、大宰府に左遷され、都に戻った翌年に不遇のうちに亡くなったようです。

2.山上憶良が思想性・社会性を帯びた異色の歌を作った理由

彼の歌は哀愁の漂うしみじみとしたものが多くなっています。病気や貧困、老いや死など庶民の苦難をテーマにしたものが多く、「相聞歌」(恋の歌)や「雑歌」(儀式の歌)は作っていません。彼は律令体制下の重圧に喘ぐ人々に、門閥もなく出世の道を閉ざされた不運な自分の境遇を重ね、思うように行かない現実と知識人としての自負と苦悩を表現したかったようです。

彼は柿本人麻呂(660年頃~724年)や山部赤人(?~736年?)を中心として花開いた万葉の世界にあって、人麻呂のような儀礼的な歌を歌わず、赤人のような叙景的な歌も詠みませんでした。万葉集に多い恋の歌もありません。それよりも世の中の貧しい人々のため息、子を思う気持ち、老残の身の苦しみこそ、彼が歌を通じて訴えたかったことです。

「貧窮問答歌」は地方役人として農民たちの生活の困窮ぶりを間近に見て、それを貧者とさらに貧しい貧者との問答とした長歌と反歌一首です。朝廷の地方役人の立場の彼が、民の側に立ったこのような歌を詠んで大丈夫なのかと他人事ながら心配になりますが、このように訴えなければならないほど庶民の困窮はひどいものだったということでしょう。

3.山上憶良の歌

(1)子等を思ふ歌

瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ   ・銀も 金も玉も なにせむにまされる宝 子にしかめやも

(2)貧窮問答歌

(3)秋の七草の歌

なお、彼の歌で異色なものに2首の「秋の七草」の歌(2首目は「旋頭歌(せどうか)」)があります。 ①秋の野に咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花 ②萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花姫部志(をみなへし)また藤袴朝貌(あさがほ)の花

※ 山上臣憶良には七夕を詠んだ歌があり、万葉集巻八にまとめて載せられている。人生の苦悩を歌い続けた憶良にしては、めずらしく風月や伝説を詠んだものであるが、いづれも自発的に作ったものではなく、官人たちの宴の席で、求めに応じて歌ったものと思われる。

※ (中西)憶良は(子を思うような)「凡庸」を否定した。憶良の周りにある「社会」(約束事)の存在を意識し、その中でも「(律令)官僚」の存在を意識し、その中心になろう、理想的な存在になりたいと欲した。

”士(をのこ)やもむなしくあるぺき万代に語り継ぐべき名は立てずして                        

士であるためにはConpitency(応答能) をもち世の中の名声を得ることが大切だと思い憧れていたのではないか。百済経由の大陸文化を身につけた知の人新しい時代が生んだ歌人であった。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑り
雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば
堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆさけ)
うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて
人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば
麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り布肩衣(ぬのかたきぬ)
ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを
我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ
妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ
この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

【訳】風まじりに雨が降る夜、雨まじり雪降る夜はどうしようもなく塩を舐めながら糟湯酒をすすり、咳をしながら鼻をすする。

少しはでているヒゲをなでて、自分より優れたものはいないだろうとうぬぼれているが寒くて仕方がないので、麻の布団をかぶって
麻衣を何枚重ねても寒い夜だ。

私よりも貧しい人の父母は飢えてこごえ、妻子は泣いているだろう。どうやってあなたは暮らしているのか。

天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは
狭(さ)くやなりぬる 日月は明しといへど
吾がためは 照りや給はぬ 人皆か
吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを
人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の
海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ
肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に
直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に
妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ
竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には
蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて
ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を
端切ると 言えるが如く しもととる
里長(さとおさ)が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術なきものか 世の中の道

世間を憂しとやさしと思へども

飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

【訳】天地は広いというが、私には狭い。太陽や月は明るいというが、私のためには照らしもしない。他の人も皆そうなのか、私だけなのか。

人として生まれ、人並みに働いているのに綿も入っておらず海松のように破れて垂れ下がったものばかりを肩にかけて、つぶれかかり曲がって傾いた家の中には、地面に藁を敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、私を囲むようにして悲しんだりうめいたりしている。

かまどには火の気もなく、米をにる器には蜘蛛の巣がはって飯を炊くことも忘れてしまったようだ。

かぼそい声を出していると、「短いもののはしを切る」とでも言うように鞭をもった里長の声が寝床にまで聞こえる。

世の中というのはこれほどどうしようもないものなのか。この世の中は辛く、身も痩せるように耐え難く思うけど、飛んでいくこともできない。鳥ではないのだから。

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この2年ぐらいで初めて紙で買った「本」!大笑いの万葉集だ。

1300年前に奈良で生まれた万葉集を、現代の奈良弁で訳した本。奈良時代の若者の恋歌を“令和の若者言葉”や “奈良の言葉”を使って訳しています。

佐々木良「愛するよりも愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集」 SNS的感性が共感を呼ぶ
  • 『万葉集』と聞けば、遠い存在に感じてしまう。古典の授業や日本史の教科書に登場した、なんだか難しそうな歌集。それが万葉集の世間一般のイメージなのではないだろうか。しかしそんな印象を一変させる本がある。高松で出版社を立ち上げた著者による、『万葉集』を現代語に訳した本書である。
  •  たとえば「白栲(しろたへ)の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(巻12・3182番)」の和歌を本書はこう訳す。「あんたに別れ話をされたとき『ほな別れたるわ!!』って即レスしたけど正直やってもうた!て思てる」……たしかに「白栲の袖」「思ひ乱れて」などの古語では伝わりづらい感情も、「即レス」「やってもうた」などの現代語を使われると、なるほどそういうことか、と微笑(ほほえ)ましく感じられる。万葉集の歌が、これまでになく身近に迫ってくる。そして「和歌って、現代のSNSやLINEの文面みたいなものなんだな」と気づかされる。
  •  私は2019年に『妄想とツッコミでよむ万葉集』(大和書房)を出版したのだが、その際も「美しい景色を詠む和歌は、きれいな景色にポエムを添えて投稿するInstagramのようなもの」「何首も続けて詠まれている和歌は、LINEを連投する心情と同じ」と説明した。本書はまさにSNS的な感性をふんだんに使った言葉遣いで、『万葉集』の和歌を現代語訳してくれている。だからこそ現代の私たちが『万葉集』を身近に感じられるのだ。
  •  本書が売れている理由は、まさにSNS全盛期の現代において、「和歌も現代のSNSを見るような感覚で楽しむことができるんだ!」と多くの人に気づかせたからではないだろうか。SNSを通して、言葉で自らの感情を伝えようとする現代。そんな時代に読むからこそ、1300年経った今、共感できる歌たちが『万葉集』にたくさん存在する。そう、『万葉集』には、現代のSNSのヒントが詰まっているのだ。=朝日新聞2023年4月8日掲載
  •  万葉社・1千円=6刷6万部。昨年10月刊。「ふざけて書いた本なので『こんなん誰が買うねん』と初版は500部。だんだん注文が増え、今では刷っても刷っても間に合わない」と著者。2023/4/11
  • 三宅香帆書評家

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Kenが小さいころ手にし、私のほうが長いこと愛読した本(実際は写真集)。広い野原にすっくと立つ1本のはるにれが、夏のある日、葉をいっぱいに広げるページをめくった時の衝撃と感動は忘れられない。

北海道豊頃町にある樹齢140年のニレの大木。実は二本らしい。農場に立ち自然とともに撮るカットと自然に立ち農場とともに撮るカットがある。秋から冬になり、冬眠を迎える。心配する写真家に「もっと近くで撮ってくれ」などと語っているかのようだ。春にになり、元気よく登場する。彼らは月とも仲良し、たくさんの草達にも囲まれる。寂しくはない。私たち人間は、日々のことがらで悩んだり、悲しんだり、喜んだりする。ゆったりと生きるニレの大木に語りかけよう。おそらく彼らは私たちを優しく包み込んでくれる。本書は絵本だ。写真集ではない。

敬愛する福岡伸一が『福岡ハカセの本棚――思索する力を高め、美しい世界、精緻な言葉と出会える選りすぐりの100冊』の中で紹介している

『はるにれ』は、原野にすっくと立つ1本の大きなはるにれの木の各季節の写真と朝、昼、夜の写真だけで、文章は一切ない。それでも、このはるにれは多くのことを語りかけてくる。

1本の大きなハルニレの木の写真だけで構成された本です。表紙は寒々とした冬を迎える前のハルニレの写真です。ページをめくると青空の中に一本のハルニレが立っています。秋を感じさせる景色はやがて冬になり、雪景色の中のハルニレをとらえます。大きな木でありながら、細い枝ばかりが目立つハルニレは、朝から夜までの様々な表情を私達に見せてくれます。

圧巻は若枝から沢山の葉を蓄えた、堂々たるハルニレの姿です。ページ一杯にこれでもかといわんばかりの緑色のハルニレの木があります。そこには偽りのない「自然」がありました。子どもから大人まで、じっくりと味わって欲しい一冊です。

名称ハルニレの木/はるにれのき
所在地北海道中川郡豊頃町幌岡
関連HP豊頃町公式ホームページ
姉崎 一馬 写真  カテゴリ: 絵本  ページ数: 32ページ  初版年月日	: 1981年11月10日

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