砂山(童謡)
海は荒海 向こうは佐渡よ

日本の童謡/北原白秋が新潟の寄居浜から見た日本海の荒波

「海は荒海 向こうは佐渡よ」の歌い出しで知られる北原白秋作詞による童謡『砂山』。日本海を望む新潟市中央区の海岸・寄居浜の荒涼とした情景が歌詞に歌い込まれているという。

 

 

 
 
作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰
1 海は荒海 向こうは佐渡よ
  すずめ啼け啼け もう日はくれた
  みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ
2 暮れりゃ砂山 汐鳴ばかり

  すずめちりぢり また風荒れる
  みんなちりぢり もう誰も見えぬ
3 かえろかえろよ 茱萸原わけて

  すずめさよなら さよならあした
  海よさよなら さよならあした

 
夏茱萸 (なつぐみ) Silverberry

「茱萸原」の画像検索結果

 

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セレナード(セレナーデ)
シューベルト(Franz Peter Schubert/1797–1828)『セレナード(セレナーデ)』は、シューベルト歌曲集『白鳥の歌 Schwanengesang』(D957)第4曲。
4. Ständchenセレナーデ

Leise flehen meine Lieder
Durch Nacht zu dir;
In die stillen Hain hernieder,
Liebchen, komm zu mir!

Flüsternd schlanke Wipfel rauschen
In des Mondes Licht;
Des Verräters feindlich Lauschen
Fürchte, holde, nicht.

Hörst die Nachtigallen schlagen?
Ach! sie flehen dich,
Mit der Töne süßen Klagen
Flehen sie für mich.

Sie verstehn des Busens Sehnen,
Kennen Liebesschmerz,
Rühren mit den Silbertönen
Jedes weiche Herz.

Laß auch die Brust bewegen
Liebchen, höre mich!
Bebend harr' ich dir entgegen!
Komm, beglücke mich!
Nathalie Stutzmann – Ständchen – Schubert D. 957

Tokyo 2006
Play List : https://www.youtube.com/playlist?list…
Nathalie Stutzmann (1965 – )
Piano:Inger Södergren (1947 – )

This version is in C minor, suitable for low/medium voices.

(1音低い、日本語訳あり)

Belle Sérénade de Schubert bien interprétée …

Julian Prégardien Born in Frankfurt

Piano accompaniment of “Ständchen” (Serenade), one of the songs from the cycle Schwanengesang D957 by Franz Schubert (1797-1828).

Leise flehen meine Lieder
Durch die Nacht zu dir;
In den stillen Hain hernieder,
Liebchen, komm zu mir!
私の歌がそっと願いを込める
夜をつうじて 君に
静かな森に下りてきて
愛しい人よ、私のもとに来てくれ!
leise 小さい、静かな、かすかな
flehen 嘆願する Lied 歌
durch 英:through
still 静かな、穏やかな Hain 小さな森
hernieder 下へ
Liebchen 恋しい人、かわいい人
Flüsternd schlanke Wipfel rauschen
In des Mondes Licht;
Des Verräters feindlich Lauschen
Fürchte, Holde, nicht.
細い枝先がささやくように
音を立てている
月の光の中で
裏切者が敵意を持って
聞き耳を立てていることを
怖がらないで、かわいい人よ
flüstern ささやく schlank ほっそりした
Wipfel 梢(枝の先)
rauschen ざわざわと音を立てる
Verräter 裏切者
feindlich 敵意のある、敵の
lauschen 耳を傾ける、盗み聞きする
fürchten 恐れる、心配する
Holde かわいい人
Hörst die Nachtigallen schlagen?
Ach! sie flehen dich,
Mit der Töne süßen Klagen
Flehen sie für mich.
ナイチンゲールが鳴くのが
聞こえるよね
ああ!彼らも君にお願いを
している
甘く心に訴える音色で
彼らは私のためにお願いしている
hören 聞く、聞こえる
Nachtigall ナイチンゲール(鳥)
schlagen 打つ、鳴く
flehen 嘆願する、懇願する
Ton 音、響き
süß 甘い、心地よい Klage 嘆き、訴え
Sie verstehn des Busens Sehnen,
Kennen Liebesschmerz,
Rühren mit den Silbertönen
Jedes weiche Herz.
彼ら(ナイチンゲール)は
胸のあこがれがわかるんだ
愛の痛みを知っているんだ
彼らは銀色の音色で心を動かす
皆の優しい心を
verstehen 理解する、わかる
Busen 胸、気持ち
sehnen あこがれる kennen 知っている
rühren 感動させる、胸を打つ
Silbertönen
jeder 英:each,every
weiche 柔らかい、優しい
Laß auch dir die Brust bewegen,
Liebchen, höre mich!
Bebend harr’ ich dir entgegen!
Komm, beglücke mich!
君も心を開いてほしい
愛しい人よ、
私の言うことを聞いてくれ!
震えながら私は君を
待ち焦がれているんだ!
来てくれ、私を幸せにしてくれ!
auch ~もまた Brust 胸
bewegen 動かす、心を動かす
Liebchen 恋しい人、かわいい人
hören 聞く、聞こえる
beben 揺れる、震える
harren 待ち焦がれる
entgegen ~に向かって
beglücken 喜ばせる、幸福にする
セレナーデ、歌ってみました。(2021/12/7)
Diction がなってないと言われたので注意して歌ってみた (2021/12/19)

セレナーデという言葉は「平穏な」という意味のラテン語serenus(セレーヌス)がドイツ語に派生したもので、イタリア語ではserenata(セレナータ)、フランス語ではsérénade(セレナード)と呼ばれます。このラテン語は、英語で同じく「平穏な」を意味する形容詞、sereneの祖先でもあります。ドイツ語では特にこうして窓の下に立って誰かのために歌う曲のことをStändchenともいいます。Stand(立っている)に、親しみを表す-chenがくっ付いて出来た言葉で、直訳すると「突っ立っているヤツ」という感じです。大井駿

Heidenröslein – Franz Schubert

  Private piano伴奏

   
   
   

Sah ein Knab’ ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
war so jung und morgenschön,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah’s mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
少年が見つけた小さな野ばら
とても若々しく美しい
すぐに駆け寄り間近で見れば
喜びに満ち溢れる
バラよ赤いバラよ野中のバラ
Knabe sprach: “Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!”
Röslein sprach: “Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will’s nicht leiden.”
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
少年は言った 「君を折るよ」
野ばらは言った「ならば貴方を刺します   いつも私を思い出してくれるように   私は苦しんだりはしません」
バラよ赤いバラよ野中のバラ
Und der wilde Knabe brach
‘s Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst’ es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
少年は野バラを折った
野バラは抵抗して彼を刺した
傷みや嘆きも彼には効かず
野バラはただ耐えるばかり
バラよ赤いバラよ野中のバラ

このバラが「その野バラ」のようです。

[ra]から

  F dur(Aから)楽譜はこちら

 

Waltraud Meier 17/24 Heidenröslein , D 257  (半音低い)
Heidenröslein 野ばら シューベルト F-dur ピアノ伴奏
シューベルト 野ばら (Heidenröslein)
186,225 回視聴 •2013/11/23

野ばら Heideröslein Op 3 3 D 257 Franz Peter Schubert:
半音低い(E dur 音はA minorから)発音練習

【ドイツ語朗読】野ばら/シューベルト ゲーテ

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GTT Outingは下見(3/12)だけの参加となりました。港南中央駅から上大岡、南区を大岡川沿いに歩き、保土ヶ谷駅まで行きました。途中、大学の時住んでいた西村さんちがある大久保町や最戸町など懐かしい街を通過。そのあと住んでいた鶴巻町ではナント金丸薬局も訪問しました!鶴巻市場の「キヨちゃん」は元気なのでしょうか?思い出しました。

清水ヶ丘公園への階段では息が切れましたが、なんとか20,000歩歩き切りました。表示は14kmとありましたが、12kmぐらいかな?実際に歩いたのは・・・。体力測定は、いちおう「合格」としました。

3/25はきっときれいに桜が咲くことでしょう!

 井土ヶ谷事件の碑

 

   辛夷がさいていました
 青木神社  
 弘明寺観音 閻魔様  
   
   

鶴巻市場の写真がこちらに

 井土ヶ谷事件は知らなかった

 
 北向地蔵  
   
御所台の井戸(政子の井戸)

 
   
   

井土ヶ谷事件:生麦事件後の文久3年5月18日(1863年7月3日)馬に乗って居留地から保土ヶ谷方面に乗馬にて出かけたフランス士官カミュが不幸にも井土ヶ谷にて 遭遇した、殺傷事件。

北向地蔵:「かなざわかまくら道」として古くから多くの人に利用されてきた道にあります。享保2年(1717)に建立。この付近で、道に迷った旅の僧が途方に暮れていると、近くの寺の住職が現れて寺に泊めてくれました。住職が言うには「道に迷って困っている僧がいるので救いに行くように」と夢の中で地蔵に告げられたとのことでした。それを知った旅の僧は、地蔵に対する感謝と旅の安全を願う気持ちから、自分の持ち物を寄進して、北(江戸)を向いた地蔵を建立したそうです。

御所台の井戸(政子の井戸): 征夷大将軍となった源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、関東諸国の御家人が鎌倉に駆けつけるための道が作られました。この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあり、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説もあります。

GTT Index

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「道義的責任」という言葉は知っているが、稲田朋美がいう「日本は道義国家を目指すべきという精神」の”道義”とはどういう意味だろうか?

❝人のふみ行うべき道徳上の筋道。”


▼五常の徳
五常(ごじょう)または五徳(ごとく)は、儒教で説く5つの徳目。
仁・義・礼・智・信
そのうちの、は、利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義。

八つの徳
孔子が論語で説く、八つの徳。
「仁」 :思いやりの心、いつくしむ心。
「義」 :人間としての正しいすじ道。
「礼」 :他の人に敬意を示す作法。
「勇」 :決断力。
「智」 :洞察力、物ごとを考え判断するはたらき。
「謙」 :謙虚、つつましく、ひかえめ。
「信」 :うそをつかない、約束を守る。
「忠」 :まごころ。
「寛」 :寛容、心が広く人のあやまちを受け入れる。


井上 道義(いのうえ みちよし、1946年12月23日 – ) (笑)

 


  • 大川周明は「満洲事変」当時、戦争の発端となった満鉄爆破の首謀者 板垣征四郎と親しかったというから、板垣の「道義国家」論に大川の『道義国家の原理』の影響を、また板垣の「東亜解放」論に大川の『復興亜細亜の諸問題』(1922年)の影響を見ても無理はないだろう。

  • “この「道義」言説は、例えば岡倉天心 (1863–1913) のような初期アジア主義者らによって「功利主義」的西欧帝国主義に対する帝国日本のカウンター・オリエンタリズムとして語られ始め、殊に日中戦争と太平洋戦争の勃発を契機として爆発的に語られた言説といえる。

  • 1937 年 5 月に発行された『国体の本義』(文部省編集)には見られない「道義」という語が、1941 年 7 月 21 日発行の「臣民の道」(文部省教学局編纂)において、

  •  「世界史の転換は旧秩序世界の崩壊を必然の帰趨たらしむるに至つた。ここに我が国は道義による世界新秩序の建設の端を開いたのである」 「支那事変は、これを世界史的に見れば、我が国による道義的世界建設の途上に於ける一段階である」 と述べられているのは、そうした事実を物語っている。

  • 一方、「道義国家」という語は 20 世紀初期の段階に見え始め、1925 年には大川周明の「道義国家の原理」(社会教育研究所リーフレット第 3)によって帝国日本の新たな国家的自己像を求める概念として用いられるようになる。
  •  
  • 大川は「個人と国家とを支配する道徳的原則」、すなわち「今日の国家が最早国民道徳の客観的実現として是認せらるべ」きことを唱えるのである。” ci.nii.ac.jp/naid/120005557…
  •  稲田朋美 2012年 「世界中で日本だけが道義大国を目指す資格がある。」
  •  ”和辻の「倫理学」的言説と「法哲学」を結びつけて「国家の道義理念を明らか」にすることを自らの「国家哲学」の使命とする尾高は、「国家をば道義そのものの最高実現」、「道義をば、法と道徳の総合理念」と捉えるヘーゲル (1770–1831) の「道義国家」言説を顕彰する。

天皇退位と憲法問題cover

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 1890年明治23年)10月30日、宮中において、明治天皇山県有朋内閣総理大臣芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語である。翌日付の官報[2]などで公表された。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身道徳教育の根本規範と捉えられた。また、外地植民地)で施行された朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)、台湾教育令(大正8年勅令第1号)では、教育全般の規範ともされた。


🌹

教育に関する勅語

 朕思うに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民よく忠に、よく孝に、億兆心を一にして世々その美をなせるは、これ我が国体の精華にして教育の淵源また実にここに存す。

 爾臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習ひ、以て知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵い、一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壤無窮の皇運を扶翼すべし。

 かくの如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。この道は、実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民のともに遵守すべき所、これを古今に通じて誤らず、これを中外に施して悖らず、朕爾臣民と倶に拳々服庸して、みな其の徳を一にせんことを庶幾う。

明治二十三年十月三十日 御名御璽


1940年文科省による口語文 (2017/4/1朝日新聞より)

明治神宮
【教育勅語の口語文訳】
  私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 
 
  国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。 
  このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。~国民道徳協会訳文による~
 ★
<説明> 明治天皇は、六百八十余年の長きにわたって続 いた、武門の政治、封建の制度を改め、維新の大 業をなしとげられました。近代日本の建設に当っ ては、特に教育の普及と道徳の実践についてご心 配になられ、(一)政治に左右されることなく、(二) 軍政にとらわれず、(三)哲学的難解をさけ、(四) 宗教的に一宗一派に片よらず、国民の誰でもが心 がけ実行しなければならない徳目を挙げて、道徳 の普及、教育の向上を熱心に望まれて、「教育に関 する勅語」をお示しになりました。天皇が国民にお おせられることは、詔勅という形式によって布告 されています。 わたくしたち国民の、永遠不変の道徳教育の基 礎ともいわれます、父子・兄弟・夫婦・友人間の 人倫、謙遜、博愛、知徳の修得、道義的人格の完成、 社会的義務の履行等、勅語にお示しになった大御 心は、いかに時代が変わっても、本質的にはいさ さかの変わりもない訳です。私たちが歩まねばな らない道しるべとして、常にその徳目を実践して 立派な人となり、平和な家庭をもち、道徳的な良 い社会づくりに努力して欲しいものです。
《明治神宮社務所刊》

🌹教育勅語の現代語訳は「国民道徳協会訳」の訳文なるものが、明治神宮の冊子やサイトにも掲載され、世間に流布している。同訳文は佐々木盛雄著『甦る教育勅語』(昭和47年)からの引用であるが、後書きには同書が佐々木の自費出版であることが記され「国民道徳協会」は実質的に佐々木個人の一人団体である。🌷内容を故意に書き換えてあったり、意訳しすぎて原文とは似ても似つかないものであるなど、訳文としての質を批判する者もある。

参考:現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。
明治二十三年十月三十日
(天皇陛下の署名と印。)
解説1:教育勅語の最後には、原本では実際には「睦仁」という天皇陛下の署名と、その下に「天皇御璽」と書かれた印(御璽)が押されています。しかしそこから書き写す時には署名と印の代わりに「御名御璽」と書くことになっています。六法をお持ちの方は、日本国憲法の前文にも「御名御璽」がありますから探してみてください。
解説2:なお、教育勅語の口語訳は、「国民道徳協会」の訳が比較的有名なようですが、どうも「皇祖皇宗」や「臣民」の意味がぼけている。あくまでも意訳だと私は解釈します。当時の背景を理解しながら元々の意味を忠実に伝えるというよりは、“現代の日本に適応させようとした平成アレンジ”になってしまっている感があります。一方、天皇機関説事件の後の頃の、昭和初期の文献による教育勅語の解説もまた極端に思えるし、とにかく人によって結構解釈が違うらしい。結局私の納得行く訳が見つからなかった(ことと著作権の問題もある)ため、極端な意訳を廃した自前の訳を作ってみました。[1999年?初版、2002/05/21, 2004/07/01改訳。]

 教育勅語は、その冒頭の一句「我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」からしてデタラメである。♠「皇祖」は天照大神または神武天皇を指すとされるが、古事記の記述によれば、神武は何の大義もなく九州から近畿に攻め込み、殺戮とだまし討ちを繰り返したあげく奈良盆地の一角を占拠した侵略者に過ぎない。神武が「徳ヲ樹ツル」など、冗談としか言いようがない。

 もちろん♣「皇宗(歴代天皇)」がずっとこの国を治めてきたわけでもない。そんなことはこの「勅語」を起草した者たち自身、重々承知していた。なにしろこの「勅語」が発布されたわずか四半世紀前はまだ江戸時代であり、現に徳川家の将軍が天下を統治していたのだ。


現代語訳(小池松次「修身・日本と世界」より)

 明治天皇がお考えになるのに、天皇の御先祖が我が日本の国をお建てになるにあたってその規模がまことに広大で、いつまでもその基(もとい)が動かないようになさいました。また、天皇の御先祖は、御自身をお修めになり、国民をお愛しみになって、万世にわたって徳政のお手本をお示しになりました。我が日本の国民がいつも天皇の忠義をつくし、よく親に孝行をつくすことを心がけ、国民全体が心を一つにして、代々忠孝の美風をつくりあげてきたことは、日本の国柄(国のすがた)のもっともすぐれた美点であって、教育の根本とするところもこの点(忠と孝)にあります。

 日本の国民は父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲よくし、夫婦はおたがいに分を守って睦まじくし、友だちはおたがいに信じあい、助けあって仲よく交際し、他人に対しては礼儀を守り、自分に対しては常に身を慎み、しかも博く世間の人には慈愛の心をもって親切にすることが大切です。また大いに勉強し、技術を身につけ、そして知識をひろめ、才能をみがき、人格を完成し、その上に公共の利益を増進し、世の中のためになる仕事をすることが大切です。またいつも日本国憲法を大事にし、法律政令をよく守り、もしも我が国に非常の場合が起った時は、勇気を奮い一身をささげて国のために奉仕し、天地と共に限りのない皇位の御盛運をお扶けするのが国民の務(つとめ)であります。

 以上のような道徳をよく実行することは、天皇に対して忠良な国民であるばかりでなく、また我らの先祖に対しても立派な子孫となることができるのです。これまでお諭しになった道徳は、明治天皇が新しくお決めになったものではなく、実に天皇の御先祖がお残しになった御教訓であって、皇室の御子孫も、一般国民も共に守るべきものであります。これらの道徳は古(むかし)も今も、いつの時代に行なっても決してあやまりがなく、また日本国内ばかりでなく、世界中のどこの国で行なっても間違いのないものです。明治天皇は、御自身も国民と共にこの御先祖の御教訓をよくお守りになり、それを実行なさって君臣一体となってその徳を完全なものにしようと仰せられました。


JCP 教育勅語ってどんなもの?

 〈問い〉 「神の国」発言とあわせ森首相の教育勅語発言が問題になっています。教育勅語とは、どういうものなのですか。(栃木・C子)

 〈答え〉 教育勅語は、明治憲法発布の翌年(一八九〇年)に、道徳の根本、教育の基本理念を教え諭すという建前で出された勅語(天皇が直接国民に発する言葉)で、戦前、学校教育などを通じ、国民に植えつけられました。

勅語は、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗(ちんおもうにわがこうそこうそう)」という言葉から始まります。「皇祖皇宗」(天照大神=あまてらすおおみかみ=に始まる天皇の祖先)が建てた国を治めるのは、その子孫の天皇であるとされています。明治憲法が、日本は「万世一系(ばんせいいっけい)」の天皇、つまり永遠につづく天皇が治める(第一条)、天皇は「神聖」だ(第三条)と定めたのと同じ考え方です。一方、国民は天皇に仕える「臣民」(家来)とされました。

勅語には、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ(ふぼにこうにけいていにゆうに)」といった、一見当たり前の道徳項目をのべているような個所があります。しかし、これらはすべて、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ(いったんかんきゅうあればぎゆうこうにほうじ)」、つまり戦争になったら天皇のために命をささげ、天皇に「忠義」をつくすことにつながるものとしてあげられているのです。

実際、戦前は「忠を離れて孝なく、父祖に孝ならんと欲すれば、天皇に忠ならざるをえない」(勅語四十周年での文相談話)と教えられました。勅語の道徳項目は、天皇を頂点とする身分序列の社会の道徳で、臣民は天皇に忠義を誓う、臣民の間も、目下は目上に従え式の身分ルールでかためられていました。

勅語には、命の大切さも、人権や平等の大切さものべられていません。“良いところ”など何もないのです。教育勅語は、戦後、新しい憲法のもとで効力を失い、国会では、主権在民に反すること、「神話的」な国家体制の考え方=「国体観」であること、国民の基本的人権を損なうものであることなどを理由に「排除」の決議がされました。(豊)

〔2000.5.25(木)〕


Twitterにあった明治学院大高橋源一郎教授の現代語訳(2017.3.14, 1時間ぐらいでやったとか)

はい、天皇です。よろしく。ぼくがふだん考えていることをいまから言うのでしっかり聞いてください。もともとこの国は、ぼくたち天皇家の祖先が作ったものなんです。知ってました? とにかく、ぼくたちの祖先は代々、みんな実に立派で素晴らしい徳の持ち主ばかりでしたね。
きみたち国民は、いま、そのパーフェクトに素晴らしいぼくたち天皇家の臣下であるわけです。そこのところを忘れてはいけませんよ。その上で言いますけど、きみたち国民は、長い間、臣下としては主君に忠誠を尽くし、子どもとしては親に孝行をしてきたわけです。
その点に関しては、一人の例外もなくね。その歴史こそ、この国の根本であり、素晴らしいところなんですよ。そういうわけですから、教育の原理もそこに置かなきゃなりません。きみたち天皇家の臣下である国民は、それを前提にした上で、父母を敬い、兄弟は仲良くし、夫婦は喧嘩しないこと。
そして、友だちは信じ合い、何をするにも慎み深く、博愛精神を持ち、勉強し、仕事のやり方を習い、そのことによって智能をさらに上の段階に押し上げ、徳と才能をさらに立派なものにし、なにより、公共の利益と社会の為になることを第一に考えるような人間にならなくちゃなりません。
もちろんのことだけれど、ぼくが制定した憲法を大切にして、法律をやぶるようなことは絶対しちゃいけません。よろしいですか。さて、その上で、いったん何かが起こったら、いや、はっきりいうと、戦争が起こったりしたら、勇気を持ち、公のために奉仕してください。
というか、永遠に続くぼくたち天皇家を護るために戦争に行ってください。それが正義であり「人としての正しい道」なんです。そのことは、きみたちが、ただ単にぼくの忠実な臣下であることを証明するだけでなく、きみたちの祖先が同じように忠誠を誓っていたことを讃えることにもなるんです。
いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです。
いままで述べたことはどれも、ぼくたち天皇家の偉大な祖先が残してくれた素晴らしい教訓であり、その子孫であるぼくも臣下であるきみたち国民も、共に守っていかなければならないことであり、あらゆる時代を通じ、世界中どこに行っても通用する、絶対に間違いの無い「真理」なんです。

日本会議、神社本庁系は、あまり強く意見を言わなくなり、とりあえずは「天皇の退位」だけで収束に向かうようだ。

(それより何より世の中が、森友学園不正疑惑、北朝鮮のミサイル発射、韓国大統領の弾劾訴追、安倍さんの思惑が絡む南スダン自衛隊PKO部隊の撤収、豊洲移転の都100条委員会・・などで大騒ぎだからだ。)

天皇の退位等についての立法府の対応について (衆議院)

平成28年8月の天皇陛下のお言葉を踏まえての皇室のあり方をめぐる国民的な議論が行われていることを含めた各般の状況に鑑み、立法府としてどのような対応をとるべきか両議院正副議長において協議を行った結果、平成29年1月16日、本件については、両議院合同で取り組むことを合意しました。

 


「特例法で対応」に言及=各党協議で民進・野田氏ー天皇退位

天皇陛下の退位を認める法整備に関し、民進党の野田佳彦幹事長が8日の衆参両院正副議長と与野党代表者の全体会議で、退位の要件を明確にすることを条件に特例法での対応を容認する可能性に言及していたことが分かった。国会が10日公開した議事録で判明した。ただ、民進党では皇室典範改正による恒久制度化を求める意見が強く、特例法で合意できるかは見通せない。

 議事録によると、野田氏は退位の要件として、(1)皇嗣が成年に達している(2)天皇の意思に基づく(3)皇室会議の議決による-の3点を典範に盛り込むよう主張。その上で「仮に特例法でまとめるのでも、後の事情は政府に任せるのではなく、(退位の要件を)特例法で書くという主張がないと私も(党内を)まとめきれない」と発言した。(2017/03/10-12:29) 毎日新聞


 

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[PDF][論説] 鎌倉における明応年間の「津波」について

sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_29/HE29_209_219_Namikawa.pdf
 受付日 2014/01/11, 受理日 2014/07/08. – 209 -. 鎌倉における明応年間の「津波について. 鎌倉国宝館*. 浪川 幹夫. Tsunamis of the …. 料を同四年鎌倉に存在したとされる津波襲来に関連. 付けている. ….. 鎌倉大仏」は「国宝銅造阿弥陀如来坐像」といい,.

鎌倉国宝館 浪川 幹夫氏、2014 浪川論文PDF

 


<鎌倉の明応津波〜大仏殿は流されたのか? 萬年 一剛(神奈川県温泉地学研究所)2013>
鎌倉大日記 大仏殿と津波の関係について記述 した文献は幾つかありますが、ここ では最も重要な文献を一つだけ取り 上げて検討してみます。それは、「鎌 倉大日記」です。
鎌倉大日記は、誰かの日記のよう な名前の文献ですが、基本的には年 表の類で、治承四 (1180) 年から天 文八 (1539) 年に、主に東国で起き た事件を記した書物です。南北朝時 代の頃から書き継がれてきたと考え られていますが、執筆の経緯や著者 は不明、原本も残っていません。明 応の津波について取り扱っている書 物はこのほかにいくつかあります が、ごく最近まで江戸時代の文献し か知られてきませんでした(山本、 1989)。
江戸時代の文献と言うことは、明 応の津波について著者が体験した り、体験した人の話を聞いたと言う ことはあり得ません。つまり、「ま た聞き」、あるいは「伝言ゲーム」 の繰り返しの結果記されたというこ とになり、信頼度ではワンランクダ ウンです。それに実際のところ、そ うした江戸時代の文献も、鎌倉大日 記より詳しい記録がされているとい うわけでも無いのです。ですから、 鎌倉大日記くらいしか、検討に値す る文献が無いのです。
さて、鎌倉大日記にある明応津波 の記述は以下の通りです。 「明応四乙卯八月十五日、大地震、 洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水 勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。 これを現代語に訳すと、「明応四年 八 月 十 五 日(1495 年 9 月 3 日 )、 写真 1 鎌倉高徳院の大仏。手前に見える平たい石が大仏殿の礎石と言われる石。 観測だより 63 号,2013  9 大地震と洪水があった。鎌倉由比ヶ 浜の海水が千度壇に至った。水の勢 いが大仏殿の堂舎屋を破った。溺死 人は二百名あまりを数えた」という 風になります。
洪水となっています が、同じ日に地震と洪水が起きたと 言うより、地震とそれに続いて津波 が発生したと読むのが素直である、 と言うことは異存無いでしょう。
この記述は、「大仏殿が津波で流 された」という説の根拠になってい ますが、よく読むと津波が大仏殿を 流したと明確に書いているわけでは ありません。しかし、大仏殿に津波 が達して、被害を受けたと読もうと 思えば読める、なかなか微妙なとこ ろであります。

 

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