6/17-23天皇皇后のインドネシア訪問。インドネシアの公共(?)放送の式典の模様を庭園全体を俯瞰した映像で見ると、日本のメディアの天皇皇后だけに注目した画像と違い過ぎて、超楽しく面白かった。Joko大統領が記念植樹の時、用具やお手拭きなどのお世話まで全部ご自分でするのには、ほほえましいというかびっくり! 宮殿バルコニーで4人そろって楽しそうにおしゃべりし、そのあとゴルフカートを大統領が運転して植物園見学となり、お付きの人が慌てて自転車で追いかけていておかしかった。笑い過ぎた。
kaisar jepang hanya berkenan bertemu atau mengunjungi orang yang beliau benar2 hormati,ini adalah momen spesial bagi negara kita ,bahkan bertemu pemimpin dunia seperti presiden Amerika atau eropapun beliau jarang sekali
日本の天皇は、本当に尊敬する人々とのみ面会または訪問することをいとわない、これは我が国にとって特別な瞬間である。彼はアメリカやヨーロッパの大統領のような世界の指導者に会うことさえめったにない。
Selamat datang di Indonesia : Kaisar & Permaisuri dari Jepang. Untuk Bapak Presiden & Ibu Iriana yang saya hormati sehat selaluインドネシアへようこそ:日本の天皇皇后両陛下。 尊敬する大統領ご夫妻、いつまでもお元気で🙏
ジョコ=ウィドド(通称ジョコウィ) 2014~現在 貧しい大工の家に生まれ、木材会社を興し、地方都市の市長となって実績を上げ、14年大統領選挙に党争民主党から出馬、スハルトの娘婿で軍人の対立候補を破って当選、インドネシアで初めて軍人でもエリートでもない大統領の登場に世界が驚いた。当初はその手腕が疑問視されたが、都市の再開発、貧困対策、汚職・麻薬撲滅などで国民の支持を高めている。大統領選挙の公約で首都の移転を掲げ、ジャカルタから東カリマンタンへの遷都が2024年に予定されている。庶民派として人気が高いが、多民族国家としてのインドネシアの舵取りに注目が集まっている。<2022/1/11>
インドネシアにおける残留元日本兵の戦後史 -残留日本人団体「福祉友の会」の分析を中心にして-
※6/20荻上チキのラジオで太平洋戦争と日本のインドネシア軍事占領(植民地支配とは異なる)についての話をしていた。女性の学者のお名前を忘れてしまった。2003年PRDUでオランダ人マルコからインドネシア軍事支配における日本(軍)の残虐行為について「知っているか?」と訊かれたことを思い出した。
東南アジアの諸島部の多くの島々からなる大国。インドの影響を受けたヒンドゥ教・仏教が栄えた時代から15世紀からのイスラーム化を経て、17世紀からオランダの植民地支配か続いた。1942日本の軍事支配の後、第二次世界大戦後に独立し、スカルノの指導のもとで第三世界の有力な一角となった。1965年の九・三〇事件で実権を握ったスハルトは、開発独裁を進め、経済を成長させた。1997年のアジア通貨危機で独裁体制は倒れ、民主化が進んだが、東ティモール、アチェなどの分離運動を抱え、政情は安定しなかった。広汎な領域に島々が分散する多民族国家であるため、「多様性の中の統一」を常に国是として掲げている。
インドネシア(3) 日本軍の侵攻と軍政 「世界史の窓」より
太平洋戦争の過程で、1942年1月に日本軍がオランダ領東インドへの侵攻を開始、3月にオランダ軍を降伏させ、占領した。日本はジャワとスマトラを分離して統治し、軍政下に置いた。
長期化した日中戦争の打開を図る日本軍は南進策をとり、フランス領インドシナを制圧し、さらに南下してオランダ領東インドであるインドネシアの島々を支配下に治めようとした。それはアメリカが対日石油輸出を禁止し、石油資源の不足が問題となったからであった。そのような資源を確保しようという意図から、太平洋戦争の開始に伴い、日本軍はオランダ領東インド攻略作戦をたて、インドネシアへも侵攻した。
まず、1942年1月10日のタラカン島とスラウェシ島への上陸作戦から始まり、2月にはスマトラのパレンバンに落下傘部隊を降下させ、占領した。次いで3月1日にジャワ島の三カ所に上陸、5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ軍が全面降伏した。日本はインドネシアを三分割し、陸軍第25軍がスマトラ、同第16軍がジャワ島、海軍がスラウェシその他の島々を統治した。
日本軍のジャワ・スマトラ分離統治
日本軍部は、スマトラ島とマレー半島部のマレー人の種族的一体性を重視していた。そのため、軍政上は、スマトラはジャワから分断され、マレー半島と一体のもとして扱われた。これは、シュリーヴィジャヤ、マラッカ王国の伝統が、侵略者の都合でかりそめに復活したにすぎなかった。この分断政策は、占領後期には放棄され、戦後は、ジャワ・スマトラなど島々にはオランダ支配が、マレー半島にはイギリスの支配がふっかつしたため、二つの植民地は別々の途を歩むことになる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.309>
日本の軍政
1942年3月から1945年8月まで、インドネシアに対する日本軍による軍政が行われた。日本は太平洋戦争の大義名分として、アジアの解放を実現し「大東亜共栄圏」を建設することを掲げていたが、実際には石油などの軍需物資を確保するためにインドネシアを支配することが狙いであった。
インドネシアにもスカルノなどの民族主義運動の中には、オランダからの独立のために日本軍に協力する姿勢を示したものも多かった。日本軍は祖国防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど軍事組織や隣組制度などを導入して統治に当たったが、軍政後半の44年3月には「ジャワ奉公会」を組織して、人的資源を「ロームシャ(労務者)」として動員し、生産活動に振り向けた。スカルノは、この時日本軍に協力し、自ら労務者徴募の先頭に立った。しかし一方で、このような日本の軍政に対し、いくつかの反日抵抗運動も起こっている。防衛義勇軍の反乱、米の供出を拒んだ農民の反乱、西カリマンタンの土侯らによるポンティアナック事件(軍事裁判で2130人が処刑されている)などである。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.312,360 なっどによる>
今も残るロームシャの悪夢
日本軍政下でインドネシア民衆の義務となったのが戦争遂行に徴用した「労務者」である。労務者という言葉は、そのまま「ロームシャ」としてインドネシアに定着し、今もその言葉とともに記憶として残されているという。
(引用)各州は常に500人以上の労務動員が可能な態勢を整えていなければならなかった。この政策で駆りだされたジャワ人は20万とも30万ともいわれ、しかもその90%は帰還できなかったという。その多くがニューギニア方面の苦戦に投入され、放置されたのである。今日でも、ロームシャは、ケンペイとともに、インドネシア人の悪夢となっている。1973年にジャワで『ロームシャ』という映画が製作され、ごく一部で公開されたが、不思議なことにすぐ消えてしまった。日本商社が買い占めたのだというのが現地の噂である。」<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.315>