◆「明治150年」への対論(戊辰戦争150年)

今年は政府の音頭で「明治150年」を「祝う」動きがある。復古主義でなく、そこで生きていた人たちの苦境、理想、思いを考える年にしたいと思う。

戊辰戦争から150年 相互理解の時代へ
2018年1月1日 (朝日新聞より)
 1868年、徳川の世を終わらせた新政府軍(西軍)は、幕府を支えてきた会津に向けて進軍し、県内各地で激戦が繰り広げられた。その戊辰戦争から今年で150年。戦火を交えた双方で、相手の思いを理解しようという試みが始まっている。一方、敗れた旧会津藩士が入植した北海道では足跡の風化が進む。1世紀半の時間は歴史のページを着実に進めている。
 「家訓(かきん)は会津藩士の心のよりどころになったものだね」「その重要性が伝わるように展示しないと」
 西軍・土佐藩の城下町、高知市にある県立高知城歴史博物館で、3月からの特別展「明治元年の日本と土佐 戊辰戦争それぞれの信義」の準備が進められている。会津藩初代藩主・保科正之が徳川家への忠誠を定めた家訓や、奥羽越列藩同盟の盟約書の写し、会津藩降伏の式典で敷かれた「泣血氈(きゅうけつせん)」も福島県内から運ばれ、展示される。
学芸員の高木翔太さん(30)は「大切な物をよく貸していただいた。本当に感謝している」と話す 館長の渡部淳さん(55)によると、高知県で旧幕府側の史料がこれだけまとまって展示されるのは初めてではないかという。「相手も含めた全国的な視点がないと、何が起きて、どういう日本がつくられたのか見えてこない」
 高知県は鹿児島、山口、佐賀の各県とともに「平成の薩長土肥連合」を結成し、観光キャンペーンを展開している。その中で、高知県内の博物館など歴史関連施設は「連絡協議会」を結成。それぞれの施設が「幕府側の立場にも注目しなければならない」といった意識で企画を練っているという。
 県立坂本龍馬記念館(高知市)は7月から戊辰戦争の特別展を開催する。7月28日には会津藩士の埋葬に関する新史料を発表した元会津図書館長の野口信一さん(68)の講演会を開く。主任学芸員の亀尾美香さん(45)は「土佐など西国では離れていることもあり、戊辰戦争を含め、福島のことを知らない人が多い」と話す。「空気感や体温のようなものを知るには、実際に会って話を聞くのが一番。会津の人たちがどのように考えているのか、わかり合いたいです」 渡部さんはこう語る。「100年では無理だった。150年でやっと協力できる機運が出てきたのだと思う。当時の立場の違いを越え、改めて近代日本を考える契機になる展示にしたい」
 1/1に集めた資料 こちら


磯田さんの記事

 

 


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東京新聞:<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (4)教育・行政 近代化の原点:社会写真
-明治維新により、日本は一気に近代化しました。急速な近代化はどのように始まったのでしょう。

 そもそも明治維新とは何か、という点から、もう一度考えてみましょう。達成されたことの一つは、江戸時代の身分制が壊れたこと。世襲制を廃止し、学校で勉強ができる人を官僚や軍人にして国家が運営されるようになりました。もう一つは徳川の「公儀」という武家の政府に替わり、新しく「天皇の政府」を作ったこと。その下で富国強兵、つまり工業化と軍事化を進めた。背景には、他国に植民地化されずに独立を保ち、うまくすれば植民地を持つ側に回る、という政治課題がありました。

 これらの要素で分けて、それぞれ出発点を説明しましょう。つまり、天皇がまつりあげられたのはいつからか、学校や官僚制度が形作られたのはいつごろか。そもそも西洋をモデルに国造りをするという発想はどのようにでてきたのか…。

 最初に全体的なことを言うと、だいたい一七八〇年ごろの「田沼時代(※注)」ぐらいから芽が見られます。司馬遼太郎さんが小説を書かれていたころの一般的な認識と比べると、かなり早くから息吹があったというのが、近年の歴史学の研究成果です。

 まず、天皇を日本の中心にまつりあげるという点では、田沼時代のさらに前から芽がある。一七〇〇年より前、だいたい元禄のころでしょう。水戸光圀の「大日本史」などの中で、日本の中心は天皇であると書かれ、「大陸の中国より自分たちの方が忠義・孝行においては尊いのだ」という考えが、頭をもたげてきます。

 田沼時代になると、浅草でつじ講釈師が、こうした内容を語って、庶民は喜んで聴いていました。将軍様の国ではあるけれど、本来は天皇の国で、これが長く続いているから自分たちの国は世界で一番優れているのだ、という考え方が、しだいに広がっていきます。

 -天皇が中心となる社会を受け入れる思想的な素地ができていたんですね。

 けれど現実には、江戸時代の幕府が無力で使い物にならないという認識がないと、明治維新の方向には変わりません。そのきっかけになったものは二つありました。一番大きなものが外国からの危機、もう一つは飢饉(ききん)のたびに財政力を悪化させていた国内政治。内憂外患、内への憂いと外への患いですね。

 そこで薩摩や長州、肥前藩では何を始めたかというと、自分の藩の学校です。従来、藩学自体がないか、自由登校であったのを、出席を藩士に義務化するところが出てきます。

 長州の場合は、学校の成績を月に数回、藩主に報告し、出世に関わるようにした。肥前などでは、成績が悪いと、親の禄(ろく)を相続する時に大幅に減らされる。そりゃあ必死で勉強しますよ。公職につけるかどうかも、藩校の成績が参考になる。やがて身分によらず、勉強のできる人が尊敬されるようになっていきます。

◇ことば
 ※ 田沼時代…江戸中期、田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治の側用人・老中となって権勢をふるい、大きな影響力を持った時代。


2018/3/25樋口陽一氏


 

2018.5.3(頃)


「各藩が慌てて藩校を作った」かのような記述は疑問:米沢興譲館は1771年に開設されている。(興譲館の歴史)
「興譲館の歴史」ではH16(2001年)には創学300年としているので、その場合は創立が1701年となる。

興譲の碑

H16(2001年)秋、藩学創設300年記念事業実行委員会により建立。
興譲館の名のいわれである『大学』第5弾1節の『一家譲なれば一国譲に興る』という文言を刻んだもの。
建学の精神である「謙譲の心」を本校の原点として心にとどめて欲しいとするシンボル的存在である

◆◆「明治150年」への対論(「薩長史観」と東條)

 

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Cover 天皇退位と憲法問題

 

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