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[PDF][論説] 鎌倉における明応年間の「津波」について
sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_29/HE29_209_219_Namikawa.pdf
鎌倉国宝館 浪川 幹夫氏、2014 浪川論文PDF
<鎌倉の明応津波〜大仏殿は流されたのか? 萬年 一剛(神奈川県温泉地学研究所)2013>
鎌倉大日記 大仏殿と津波の関係について記述 した文献は幾つかありますが、ここ では最も重要な文献を一つだけ取り 上げて検討してみます。それは、「鎌 倉大日記」です。
鎌倉大日記は、誰かの日記のよう な名前の文献ですが、基本的には年 表の類で、治承四 (1180) 年から天 文八 (1539) 年に、主に東国で起き た事件を記した書物です。南北朝時 代の頃から書き継がれてきたと考え られていますが、執筆の経緯や著者 は不明、原本も残っていません。明 応の津波について取り扱っている書 物はこのほかにいくつかあります が、ごく最近まで江戸時代の文献し か知られてきませんでした(山本、 1989)。
江戸時代の文献と言うことは、明 応の津波について著者が体験した り、体験した人の話を聞いたと言う ことはあり得ません。つまり、「ま た聞き」、あるいは「伝言ゲーム」 の繰り返しの結果記されたというこ とになり、信頼度ではワンランクダ ウンです。それに実際のところ、そ うした江戸時代の文献も、鎌倉大日 記より詳しい記録がされているとい うわけでも無いのです。ですから、 鎌倉大日記くらいしか、検討に値す る文献が無いのです。
さて、鎌倉大日記にある明応津波 の記述は以下の通りです。 「明応四乙卯八月十五日、大地震、 洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、水 勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。 これを現代語に訳すと、「明応四年 八 月 十 五 日(1495 年 9 月 3 日 )、 写真 1 鎌倉高徳院の大仏。手前に見える平たい石が大仏殿の礎石と言われる石。 観測だより 63 号,2013 9 大地震と洪水があった。鎌倉由比ヶ 浜の海水が千度壇に至った。水の勢 いが大仏殿の堂舎屋を破った。溺死 人は二百名あまりを数えた」という 風になります。
洪水となっています が、同じ日に地震と洪水が起きたと 言うより、地震とそれに続いて津波 が発生したと読むのが素直である、 と言うことは異存無いでしょう。
この記述は、「大仏殿が津波で流 された」という説の根拠になってい ますが、よく読むと津波が大仏殿を 流したと明確に書いているわけでは ありません。しかし、大仏殿に津波 が達して、被害を受けたと読もうと 思えば読める、なかなか微妙なとこ ろであります。