12/24、東京はクリスマスでにぎわっていました

 
  

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 娘が忙しい中、整えてくれた食卓
 

 
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  子ども用の食事も
 

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              メイン・ディシュ(美味でした)Xmas4.JPG
Mariが選んだケーキ,「大丈夫かな?ちゃんと入ってるかな?」Xmas5.JPG
 
  大丈夫でした!(Yoysuya ANTENDO)Xmas6.JPG
 

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  Simon w Xmas cake2012_2.png
         ボク、うれしいな!
 

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Mariの絵とABC。ちょっと得意顔
 
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    まりのポーズ
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自然な笑顔がいちばん?!
 
  (最後に動画で)


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金沢八景駅裏「権現山・お伊勢山」の晩秋

<権現山・お伊勢山については、こちらのサイトも。>

   金沢八景駅木村邸の裏山のもみじです(2012.12.22)gongenyama0.JPG

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  竹林からの眺めですgongenyama4.JPG
 

    あたたかい陽の光に輝きますgongenyama5.JPG 
 
     左手に平潟町と八景島方面がかすかに見えますgongenyama7.JPG
 

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花に寄せて(Indexへ) 

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果物・おいしかった食べもの
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 大切な友だち
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  うた・ピアノ・音楽のこと
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 私が読んだ本(Book warm)
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家族・近所の人たち
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 風習・お祭り・くらし・服装  
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学校・勉強・行事
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 子どもの頃の夢
  Special PAGE  ★母が残してくれた作品☆

金山の家 2024/10/24 追加

2023 年7月Googleでもまだあった「あの家」。驚異の生命力、堅牢な建築物(?) 75年は持っている!

「あの家」2018

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無題ドキュメント

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私が大きくなったら・・

母が語ったことだが、私の将来の夢はバスの車掌さんになることだったとか。私が育った山あいの農村では、自立して働く人として最初に出会うのはバスの車掌さんだった。
師範学校で勉強し、学校の先生になるのが夢だった母、でも戦争でその望みを断たれ私にその望みを託していたので、「がっかりした・・」と言った。なので車掌さんは断念した。

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次の夢は”ピアニスト”

小学校の4年の時、近くの中学の音楽の先生が「ピアノを教えたいので生徒を探している」といったらしい。音楽大好き、新しい・楽しいことが何よりも大好きな母が、きっと私に勧めたのだと思う、私がその生徒になった。音階をドレミではなくドイツ語でツェ・デ・エ-・エフと教える本格派の先生だった。それで、私の次の夢は”ピアニスト”となった! 関連「からたちの花」

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  続きはこちらから・・・

★(画像)
 タイトル5

 本文5。  続きはこちらから・・・

★(画像)
 タイトル6

 本文6  続きはこちらから・・・

 

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無題ドキュメント

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就学前のある日

満3歳の時の弟誕生の日の記憶を除き、私が最も古い記憶としてはっきり憶えている風景は、小学校へ入学する前、学校の教室なのか廊下なのか、明るい陽ざしが輝く板敷きの室内で、うれしいようなコワいような緊張の中で、何かを待って友だちと並んで座っていた時間。きっと先生のお話しを待っていたのだろう、もう思い出せない。でも、晴れやかな楽しいことが始まるのを感じていた。

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習字コンクールで「特選」となる

小学校は(たぶん,きっと,かなり)のんびりしていた。小学校2年生の姉がやっている二桁の算数の問題は解いてたけど、のんびりした字を書いていた。母は私のひらがながおお~きくて、名前の最初の字”ひ”が「下へどんどん延びて上へ戻ってこない」と言って心配して、でも笑った。
それでも先生の助けで大きな習字コンクールで特選を取った。小学校1年の時のことだ。 関連記事はこちら・・・  2015年、賞状が見つかりました。copyAkemiAwards11.JPG

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鉛筆の思い出

毎日学校へ持っていく鉛筆は、いつもきれいに削ってありました。母が、子どもたちが寝静まってからきれいに削ってくれたのです。子どもころは当たり前のように思っていましたが、母の勤勉さと愛情を感じました。
学校のことと言えば、先生の家庭訪問の日は家の中が完璧にきれいになっていて、自分の先生の訪問の日でなくてもすぐ「あ、今日は家庭訪問の日だ」とわかったものです。 

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定期購読は「少女ブック」

小学生の時、父が毎月買ってくれた懐かしい少女雑誌です。内容は歌手などアイドルの写真やマンガ、読み物。テーマは、バレエ、家族のものがたり、古典など。定期購読の届け先は自宅ではなく父の職場でした。3日ぐらい前から楽しみに待ち、発売日当日は父の帰宅を首を長くして待ちました。その父は、「あ!(届いたのに)持ってくるのを忘れた!」とよく言いました。私がどんなに落胆したことか!!なのに父は何だか嬉しそうだった気がします。きっとあまり多くない”楽しみ”を大きくしてくれたのかもしれません。

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小学校高学年の時の先生

私が出あった先生の中で最も尊敬し好きだった村越栄子先生。聡明で字が素晴らしく上手で、ふっくらした体格でした。明るい学校の裏山での野外観察(&ちょっと勉強)がユニークで好きでした。5年生のころ、先生の長男が脳炎に罹り、数カ月後教室に戻ってきたとき、黙って黒板に「ウィルス性脳炎・・」と書いて悲しみをこらえて私たちに説明しました。悲しさが胸に響きました。後年、母の無二の親友となりました。

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集団就職で旅立った友

中学を卒業すると集団就職のために上京する友人が多くいました。その友人たちが宮内駅からみんな同じような白っぽいスプリングコートを着てその中はまだ学生服のまま、応援団の応援歌と家族・先生・たくさんの友人に見送られて旅立ちました。それぞれの歴史があったことでしょう。私は知らない・・。でも、あの見送りの時の別れの悲しみと何とも言えない奮い立つような思いの春は忘れられません。  

 

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子どもの頃の暮らしと「仕事」

 父が「給料取り」(公務員)だったので母は近所では珍しい専業主婦。近所の人からは「奥さん」と呼ばれていた。周りは大きな農家が多く、私の家だけ(比較の問題だが)小さい普通の住宅で「勉強部屋」と呼んでいた本棚付きの子どものための洋室があった。
家での「お手伝い」は、毎夕方の廊下・台所の雑巾がけ。あとは秋の落ち葉掃き。家の屋根に重なるような大きな柿の木から毎日大量に落ちてくる葉っぱが恨めしかった!あとの時間は、自由に遊んでいた幸せな子どもだった。

   
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 神社を見たら立ち止まって一礼!

 子どの頃、父と歩いていると突然立ち止まる。理由を尋ねると「八幡様が見える・・」とか言う。遠視で、相当遠くまで見えていた父は、数百メートルぐらい先で、私からはほとんど姿も見えない神社に向ってもかならず直立不動となり深く一礼していた。その時は「何それ?」と思っていたが、大人になってみると自分も父と同じことをしている。

2018.12.24の夜、サンタクローズからのプレゼントのような、あの「お八幡様」の写真を見つけた!

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 子どもの頃の楽しみは・・

 やっぱりお祭り。日本三大熊野神社のひとつ宮内の夏祭りと、秋の菊祭り。夏祭りの前には、毎年母が新しいドレス(ワンピース)を作ってくれた。黄色いワンピース、ピンクのワンピース。忘れられない。暑いので、めったには入れない町の「食堂」でイチゴのかき氷を食べ、人ごみをかき分けて沿道に並ぶ露天のお店を見て歩く時の楽しさ。でも、大きな神輿が繰り出し大勢の大男が迫ってきて押しつぶされるようになると、この世にこんな恐ろしいことがあるのかと心底怖かった!(菊祭りのことはこちら)   

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 サンタさんは「絶対いる!」

 今考えるとフシギだが、小学校の6年生までサンタクロースの存在を信じていた。だって、毎年クリスマスの前の数日間、冬の夜空に向って「サンタクロース~。赤い手袋が欲しい~」とお願いすると、ちゃんとその通りのプレゼントが届いていたから。それに小さいけれど白いクリームがのったケーキも届いた!
プレゼントをお願いして精いっぱい声を張りあげた時の、凍りつくような夜の白い雪の情景が懐かしく思い出される。  

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 懐かしい風景

 あの家は今もお花に囲まれています。誰かは知らないのですが、感謝したい気持ちです。

20181224にも健在

 鬼面石

 村の北の方角、遠い山の中に「恐ろしい岩があるらしい。鬼のような顔だ。そばでそれを見たりしたら恐ろしい目に合うぞ」と言われていた。子どものころ一度だけ傍を通った。恐ろしくて上目づかいにチラッと見ただけだったが、おどろおどろしく黒く大きかった。

2018.12.24にネットで見てみた。

なるほど怖い、今見ても・・・。

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 昔お城があった!

 弟の一家が東京圏に移り住んで1年ほど。どんどん遠くなるふるさと。ネットで偶然、その昔私の故郷が交通の要衝で城が築かれた場所だったことを知った。その中には、父が尊崇の念で見上げていた”ななさこやま”の記述もあった。知らべてもわからなかった漢字が”七瑳古山”だったことも知った。 続きはこちらから・・・(1) (2)

「金山城と色部氏」 

2016.7

 

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 吉野鉱山の歴史

 故郷の情報誌に掲載されていました。2016.8.2

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2014年撮影か?
 

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太平洋戦争の父

 小学生の頃、夜、食事のあとなど、父は子どもたちに「いくさ」の話をしました。酷寒の満州でしもやけに泣いたこと、フィリピンのジャングルで部隊を率いての行軍中、雷に撃たれ難儀だったことなど、ゆっくりと、でも同じ話を何度も語りました。全体の話から、父は「戦争はすべきでない」と語っていると感じていました。
数年前、神奈川新聞に父の1942年ごろの戦地での消息がわかる記事が掲載され、驚いたことがありました。

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母との冬の夜の話(1)

 父に似て、冬になると毎年しもやけがひどく、母が毎晩私の手をきれいに洗い軟膏を塗り包帯を巻いてくれたのですが、ダメでした。特に手の甲と手首の部分は広範囲にしもやけがひどかったので、その後遺症でしわだらけでちょっと黒っぽくなっています。ネイルをしてもらった時改めて自分の手の写真を見て、昔の冬の日のことを思い出しました。※ネイル・デビューのことはこちら(’13.1.26)

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母との冬の夜の話(2)

 冬になると思い出すのは、寒い冬の夜、母が私を家から10分ぐらいのところにあるお店までよく買い物に誘ってくれたこと。買い物の後、母は小さい袋に入るほどのピーナッツを買いました。そして、帰り道にいつも「少し食べなさい」と言ってその小さい袋から1/3か半分ぐらい私に食べさせてくれました。雪のこともあった寒い夜、小さかった私は母にぴったり寄り添って歩きました。その時食べたピーナッツの塩味、寒い夜。懐かしい冬の思い出です。(’13.1.26)

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大きな赤ネコ 『ペッコ』

 どこから来たのか、大きくて強い、赤毛(といっても金色に近い)のネコがいました。夜はいつも一緒に寝て、それはそれは身近なかけがえのない存在でした。でも、ペッコが12歳ぐらいのある日、忽然といなくなりました。死期を悟って家を出たのか、それとも何かあったのか、今となってはわかりません。大切な”友だち”の家出がショックで、長い間悲しかったことはよく覚えています。

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天真爛漫、2歳年上の姉

 戦時中、中国南東部で生まれた姉は小さい頃から体が小さくよく病気をしました。小学校の2年か3年の頃は肋膜炎に罹り、兄の戦死、戦後の混乱の中での二人の姉の病死を経験した母のショックは大きく「私が絶対に治してあげる・・」と、1年ぐらいは姉にかかりきりでした。姉は学校の成績も△で私たち家族の「ちょっと困った子」でしたが、母はそんな弱い姉をいちばん可愛がっていました。私は姉の存在にちょっと鬱屈した気持ちを持っていました。子どもの頃のことです。

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雪の日の思い出

母とは反対に謹厳実直なのに天然ボケのところがあったのが父。同じく天然ボケの姉とは良い勝負。冬晴れのある朝、父は家の玄関前に積もった雪にソッと深さ50cmぐらいの穴を掘り、藁か小枝を渡し、その上を雪で覆いました。そして「(姉を)呼んで来い!」とうれしそうに私に命じました。「な-に?」と言って玄関から出てきた姉が見事にひっかかり雪穴に落ちる!怒る姉、見ていた父と私と弟は大笑い。母には叱られましたが、フト天然ボケが出るおかしな父。幼い頃の冬の日の懐かしい情景をくっきりと思い出します。

山の芋煮会

ナナカマドの実を見ると、懐かしい山の芋煮会を思い出します。リヤカーに荷物を積んで釜渡戸まで1時間ほど歩いた気がします。里芋、ジャガイモ、ニンジン、牛肉、ネギ、山のキノコも投げ込んで!煮てました。秋の澄んだ空気、紅葉、おいしい匂い、みんなの笑い声・・・。ナナカマド、リンドウが咲き、山に来たのでトウヤクを探す人もいました。 【2022/9/27記】

   

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オールコット作「若草物語」

たぶん小学校の低学年の春の頃、父の友人が”めずらしい素晴らしい”お土産を持って我が家を訪れました。母が大変興奮して「この本は外国の本で高価で貴重なのだ」といい、座敷の奥にあったガラスケースが付いている書架に大切に納め、なかなか読ませてもらえなかったのを覚えています。「外国の本」と聞いたのに見てみると日本語なので「ヘンだな」と感じた記憶があります。「洋書」と言ったのかもしれません。でも、この時のうれしさと本への憧れが後の読書好きの私を作ったのです。
「若草物語」

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原田 康子作「挽歌」

本で読んだのは小学校6年生ぐらいだったかもしれません。
でも私が挽歌を知ったのは久我美子が主演した映画です。学校の行事で見たのでしょう、授業で感想文を書きましたから。私は内容を良く理解し感動し、そのまま書きたいこと思ったのですが、自分の年齢を考えて控えめに理解したような感想文を書きました。それでも先生は私の母に「16歳ぐらいの精神年齢だ」と言ったそうです。私にとってはその評価の方が驚きでした。その意味で強く印象に残る作品です。
「挽 歌」 ★母が残してくれたboxに2015年その作文が見つかりました。AkemiMoviwRev1.JPG

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 怪獣映画「ラドン」

小学校の中学年ごろ親に連れられて観た映画です。筑豊の炭鉱の地中深く、暗い坑内でひっそりと生れた世にも恐ろしい姿の怪獣の幼虫は、屈強な炭鉱の男たちをも恐怖に陥れました。その巨大な幼虫が、暗い坑内をうごめくさまは、私の幼い恐怖心を心底ゆすぶり、長い間トラウマとなりました。一緒に観に行った父と弟は何故か平気な顔で見ていました。映画「ラドン」は、日本が受けた原水爆をモチーフにした社会性のある映画だったことをあとで知りました。幼い私にとってはとてもとても、恐ろしい出来事でした。
映画の紹介はこちら、こわい幼虫の顔は「ラドン 炭鉱 幼虫」の画像検索結果

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 若の花物語「土俵の鬼」

 「初代若ノ花が自ら主演した伝記映画で、1956年12月劇場公開」とあります。私が観たのは小学校4年生ぐらいの時。当時好きだった大関若の花が、まだ若い時から沖中士として働き、鍛えた肉体とハングリー精神で小さい体で相撲に立ち向かう映画でした。この映画が忘れられないのは、見終わって映画館から出てからも「もう一度映画館へ戻りたい!」と強烈に思った、その時の私の胸の中の悲しみの気持ち。映画の中で、長男をやけどで死なせてしまって泣くシーンに心を揺さぶられたから。あの時の私の悲しかった気持が今も鮮やかに思い出されます。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は The-Long-Winter-Cover-700x692.jpg です
 ワイルダー「長い冬」

 小さい個室で月間の女性誌を読んだいたら、小学生のころ母が私にとても感動した本として、こころを込めて話をしてくれた。私がその後読んだかどうかはっきりした記憶はない。今度は英語版で読んでみたいと思う。2020.3.21記 <つづく

 

★(画像)
 タイトル6

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